帰国大学進学情報誌「帰国PRESS」の中から、ESSAYを転載します。
帰国生に関わる各界の方々や国際教育センターの講師から海外滞在生へのメッセージです。
※執筆者の肩書き・年齢等は掲載当時のものです。
筆者プロフィール 東京海上日動火災保険株式会社で常務執行役員、米国法人社長等を歴任し、現在海外子女教育振興財団理事長。在米中はニューヨーク教育審議会副会長も務めた。
本年、2024年は日本の紙幣の顔が新しくなる年です。
その顔触れは、一万円札に渋沢栄一、五千円札に津田梅子、千円札に北里柴三郎ですが、この3人に共通している点は、みな若き日に日本を離れ、異国の地で世界を知り自己形成をしたということです。
日本と海外で培った力を開花させ、それぞれ実業・教育・医学の分野で世に貢献したことは、皆さんもよくご存じのことと思います。現在海外で学んでいる皆さんは、こうした偉大な先達の後継者です。年頭にあたり皆さんのご活躍をお祈りするとともに、今いる場所で自己を磨き、未来を切り拓いていっていただきたいと願います。
私には夢があります。
それは、近い将来、日本人初の国連事務総長が誕生することです。その最有力候補が、異国の地に学ぶ皆さんです。
現在高校生の30年後は40代後半、まさに国連事務総長の候補そのものです。自ら考え、発信し、行動する力を蓄えて、真の世界平和に貢献できる大人に、第一級の人材になってほしい、このように念願しています。
ロシアの元大統領ゴルバチョフは、「平和とは、似た者同士が団結することではなくて、異なった者同士が違いを認め合って団結すること」という趣旨の発言を残しています。これからの国際社会の平和構築には、異なった考えの者同士がその相違を認め、違いを乗り越えて団結することが肝心です。その中心となるのが、国連事務総長であり、その資質は、現地校や日本人学校、補習授業校といった在外の教育施設において、複数の視点を得た子供たちが習得しえるものです。
そういえば、今の樋口一葉の五千円札の前の肖像は、今から百年ほど前に国際連盟事務局次長を務めた新渡戸稲造でした。彼もまた、アメリカで学生生活を送った俊英で、日本の近代史に大きな足跡を遺した人物です。
話は変わりますが、2040年を見据えた国の在り方として、これからの日本のグローバル化に当たっては、「日本人だけが『日本人』ではない社会」というものを想定しています。人口減少等で日本の成長基盤が失われてゆくなかで、日本を想い日本のよさを理解して世界各地で活躍する人材、国籍と人種を超えた「日本人」を、これからの時代の「日本人」と定義したいと考えています。そのような存在の活躍が成長を牽引し、皆が安全に生活できる、それが日本のグローバル化であるといえるでしょう。
そのためには、学校にも変化が必要です。海外子女教育の進化形としての学校、この学校は従来の在外教育施設だけではなく、海外子女が学ぶ現地校自体と国内校をつなげて、相互に学び合いつながり続ける学びの場になっていけたらと夢をふくらませています。このように進化するならば、国籍と人種を超えた日本人社会が大きく構成できるのではないでしょうか。
また、皆さんも関心が高い帰国子女の受入校が、同時に国籍を超えた子供も受け入れる学校でもある、これが、これからの時代の本当の意味の国際理解教育になるものと考えています。受入校を「国際理解教育校」というような概念に変えてゆくことができれば、「内なるグローバル化」は一層進むと考えます。
そして、こうした変化に呼応するものとして、「Beyond School構想」というものを現在思い浮かべています。在外教育施設を従来の「学校」のイメージから進化させ、自由な発想で学びの場を再定義するものです。
そのために、次のようなストーリーも用意しています。
以上の諸点を目指すことにより、学校がより安心安全で、グローカルな議論が繰り広げられ、広く地域に溶け込んでいく学びの場と進化する姿を想定したいと思います。さらに、このような学校に派遣された教員は、真の国際理解教育を修得し、帰国後には包摂的な日本社会をリードする教育者として内なるグローバル化をリードしてくれることを確信しています。
そして、独り在外教育施設だけでなく多くの志ある教育機関においてこのような変革が進むことにより、世界に貢献できる人材の輩出がより活発になると考えています。
筆者プロフィール 早稲田大学政治経済学部卒。大学受験科では政治経済や倫理を、帰国生には社会時事を教えています。著書も多数ありますので、ぜひご一読を。
日本は驚くほどの「ムラ社会」です。
ムラ社会とは、村人たちが「村の掟」に従って秩序を保ち、互いを監視し合いながら、従わない者をヨソ者として排除する、排他的な社会です。
日本がムラ社会になったのは、かつての日本が農業国、それも権力者に年貢を納める封建制だったためです。つまり、村単位で課税される重い年貢や、誰かが納められない時の連帯責任制などが、村人同士の結束や監視を強固なものにしたのです。そこでは「共同体の和(協調性)」が何より大事で、自由や個性は「和を乱す敵」でした。だから村人たちは、個を殺し、必死に周囲を見渡して「他者と同じであろう」としてきたのです。
そして厄介なことに、この風潮は現代もあります。もはや日本にこんな村は存在しないのに、私たちに染みついたこの「ムラビト気質」だけは、今も日本社会全体に、色濃く残っているのです。
さらに、私たち日本人は、他者との争いを嫌います。多くの日本人はその理由を「我々は平和を愛する民族だから、争いを好まないのだ」などと勘違いしていますが、実際は違います。「争いが苦手」なだけです。
島国である日本は、外敵の侵略をほぼ受けてこなかったため、真剣な議論やケンカに慣れていません。やるのも見るのも苦手です。だから、せっかく議論が白熱してきても、必ず誰かが「まあまあまあまあ」と止めに入ります。
ムラ社会で、争いが苦手 ―― ここから日本式の「空気を読む」が生まれます。つまり、本来ムラには和を保つための掟が必要ですが、あまり厳しい掟を作って、みんなとギスギスしたくもない。ならば掟は「どこにも書いていないけど、何となくみんなが守るもの」にしたい。そのような「あいまいな掟」こそが、空気の正体です。
さあその「空気」ですが、これを読むのは、村人以外には大変です。だって「書かれてないものを読む」わけですから。皆さんが日本に帰国して、最初にとまどうのもそこです。まず皆さんが、せっかく海外で培った長所(積極性、個性、自由な判断力、自分の意見など)が、なぜか周囲の人たちを困惑させます。「え、何で?」と思っても、その理由はどこにも書かれてない。ただみんな、顔を見合わせ、ひそひそ声で「あの子、空気読めてないよね」と囁き合うだけです。
こういうことが続くと、ひょっとしたら皆さんも空気を読み始め、自分も村人になろうと考え始めるかもしれません。でも、いい解決案があるので、結論を出すのは少し待ってください。
帰国生のクラスではそれほどでもありませんが、一般受験生のクラスには、「空気を読む生徒」が実に多いです。共通点は「手を上げない」「少数派になろうとしない」「すぐ周囲をうかがう」「討論の授業は、積極的な数人の生徒だけに任せる」などです。彼らは、日々を快適に過ごすためには「目立たない/多数派でいる/他人と同じ意見をもつ」などが必要なのだと考え、そのために彼らなりに努力をしているわけですが、その先にあるものは、平均化という名の「主体性のなさ」です。
『菊と刀』の著者・ベネディクトは、日本を「世間の目を気にする "恥の文化"」、欧米を「自己の良心を重視する "罪の文化"」と分析しましたが、日本のムラ社会は、まさに恥の文化です。一方で、企業が皆さんに期待する能力は「グローバルな視点/語学力/積極性」などですが、もし皆さんが、世間の目を気にして恥の文化にまみれ、村の一員になってしまったら、結局皆さんは、他の村人と同じレールで流され、最終的には日本で過ごす平均的な人々と同じような人生に呑み込まれてしまいます。
村人として生きた場合のゴールは「平均化された人生」です。人と同じ生き方を選べば、ある程度そうなるのは仕方ありません。でも皆さんのキャリアを考えれば、それはあまりにも勿体ない。かといって村人にならないと、浮いてしまう。ではどうすればいいのでしょう?
私の答えは「空気も読めて、時々読めないふりもできる人間」になることです。
まず、空気を読む力だって、日本で快適に生きるための「能力」です。だから私は、空気を読むこと自体を否定しません。ただそれを、正しく使いましょう。うまく使えば、皆さんは「集団が求める気遣いもできるうえ、要所要所で村人にない自由や個性を発揮して、集団から重宝される」ようになります。
社会が求める理想の帰国生像は、実はこれだと思います。つまり「村にとけ込み、足りない部分を補ってくれる」帰国生です。だから皆さん、そういう「スーパー帰国生」をめざしましょう。それになれれば、皆さんの未来はきっと明るいものになります。
筆者プロフィール 1998年生まれ。代ゼミの系列塾であるSAPIX中学部・Y-SAPIX高校部横浜校に計6年間通う。大学在学中、独・ミュンヘン大学に交換留学。2021年外務省入省。2023年の夏から2年間、研修のため米国の大学院に留学予定。
私は皆さんと違い、生まれてからの約24年間のほとんどを日本で過ごしてきました。入学した高校で、シンガポールからの帰国子女の同級生と親しくなり、初めて海外に興味を持つようになりました。日本の大学に進学しましたが、海外でも学んでみたいと思い、3年生のときにドイツの大学で半年ほど交換留学をしました。大学卒業後は外務省に就職し、現在は日韓関係を担当する部署で勤務しています。なお、本稿には個人的見解が含まれていますが、当該見解は個人の見解であり、所属組織の見解を示すものではないことを予め申し添えます。
大学では、主に東アジアの政治や歴史について学んでいました。歴史学の研究者を志していた時期もありましたが、最終的には日本の外交に携わりたいと考えるようになりました。外交官は、過去の歴史を見返すだけでなく、責任感を持って、これからの歴史を創っていくこともできる職業だと思ったからです。また、国際社会が混沌とした時代を迎えているなかで、自由や民主主義、法の支配といった価値観を大切にする日本は、外交を通じて、世界に非常に大きな貢献ができるのではないか。その一翼をぜひ自分が担ってみたいとも思うようになりました。これらの気持ちは、外務省に入って2年経った今も変わっていません。
少し大きなことを言いましたが、社会人2年目の私が、日本の外交のためにできることというのは、限られています。今はまだ裏方としての仕事が多いですが、そのような地味な仕事こそが、実はとても大切だということに気づくようになりました。他の多くの職業についても、同じことが言えるのではないかと思います。
例えば国のトップ同士が会うというときに、そこで何を議論するか考えるのは言うまでもなく大切です。しかしそれ以前に、会議には会議室が必要です。ある国と1時間の首脳会談をやりたいと思っても、会議室を30分しか予約できなければ、30分の首脳会談しかできません。そうなると、相手の国には、こちらが伝えたいと思っていたメッセージの半分しか伝えられないことになります。会議室も、どこでも良いというわけではありません。充分な警備を行えるか、総理の前後の予定に支障のない場所にあるか、同席者は何名なのか等々、考えなければいけないことは山ほどあります。会議室を予約するという地味な仕事一つ取っても、意外に一筋縄ではいかないものなのです。
こうした一つ一つの地味な仕事の積み重ねが、華やかな外交行事の成功に繋がります。今年の11月、日韓首脳会談が約3年ぶりにカンボジアで実施されました。私も現地に出張して準備に当たりましたが、会談が無事終了した時には、大きな達成感を味わうことができました。以前ある先輩から、外交官という職業の醍醐味は、歴史の大舞台に立ち会えることだと言われましたが、まさしくそのとおりだと感じた瞬間でもありました。
私は高校・大学と、帰国子女の同級生から多くの刺激を受け、それが私の学生生活や職業選択に、とても良い影響を与えてくれたと思っています。尊敬する職場の先輩や同期にも、帰国子女だという方が少なくありません。帰国子女の皆さんは、これまでの国際経験を通じて、様々な文化や価値観を理解する謙虚さと、それに適応していく逞しさを持ち合わせていると思います。皆さんは、日本が国際社会と向き合っていくうえで、間違いなく欠かせない人材です。
そんな皆さんに、私からアドバイスできるようなことはほとんど無いのですが、敢えて一つ挙げるとすれば、それは「背伸び」をすることです。私は大学3年生のときに、ドイツの大学で交換留学をしました。ヨーロッパ政治の授業を取っていたのですが、当初は積極的に発言するドイツの学生たちに圧倒され、全く議論に参加することができませんでした。一人黙り込んでいる自分が情けなく、もう授業に行くのはやめてしまおうかとも考えました。しかしそれではもったいないと思い、1回の授業につき最低でも2回は発言するという目標を、自分に課すことにしました。自信を持って発言できるようにするため、授業の予習にも力を入れました。その結果、発言できる回数は2回、3回、4回と増えていき、最終的には、自然な形で議論に参加することができるようになりました。
この経験をもとに、私は仕事でも、今の自分の実力では「少し難しい」と感じることになるべく挑戦し、成功体験を積み重ねていくことを意識するようにしています。身の丈に合わないことに挑戦しようとすると、最初は苦労や痛みが伴います。ただ、試行錯誤しながらそれをなんとか乗り越えると、かつてより成長した自分に気づくことができます。今まで苦労してやってきたことも、簡単に感じられるようになり、自分に自信が持てるようになります。ただ、初めてやることを最初からできる人はいません。挑戦をする過程で、不安なことや困ったことがあれば、臆することなく周囲の大人に助けを求めましょう。
挑戦、挑戦と偉そうに書きましたが、皆さんどうか無理はなさらず。お身体に気をつけて、学業や課外活動に思う存分取り組んでみてください。将来性豊かな皆さんの御活躍を期待しています!
筆者プロフィール 1947年生まれ。慶應義塾大学、米ブラウン大学、スタンフォード大学院で学ぶ。外務省入省。東京のほかジャカルタ、パリ、ロンドン、ワシントン、ジュネーブに勤務。駐米大使退任後は上智大学教授などを経て現在、日米協会会長、北鎌倉女子学園理事長など。
私は、4歳から6歳を英国とインドネシアで過ごし、13歳と14歳を米国で過ごしました。ですから帰国子女と言えるほどの語学力は身に付きませんでした。でも幼児のころ外国にいたため英語の発音にはあまり苦労せずにすみ、外国人を色眼鏡で見ないようになりました。
母は戦前の帰国子女でした。10代のころ祖父の仕事の関係で英国、ドイツ、チェコで学校に行きました。1930年代のハンブルグではアジア人は珍しかったらしく、級友の家に誘われて行くと、親戚中が母を見るために集まってきたそうです。そして母が日本にも地下鉄があると言うと、明治維新から60年余りしかたっておらず、そんなことはありえないと思われたようです。「この子が言うならそういうことにしておきましょ」というふうにドイツ人の大人たち同士がお互いに目配せしているのに気づきくやしかった、と思い出を語っていました。私の場合、1960年に13歳で米国に行ったときは、日本はまだ高度成長の始まる前でした。今の日本なら当たり前ですが、どこの家にも車があり、大きな冷蔵庫にいつもコーラやアイスクリーム、メロンなどが入っている生活には驚きました。あまり感心したような顔をしないように親に言われたものです。昔外国に行った子どもたちは、今とは違う苦労をしていたのです。
私は帰国子女の価値は、単に外国語ができるというよりも、外国かぶれせず、逆に外国嫌いでもない「客観的な外国通」ということにあると思います。それは日本にとっては大事なアセットです。
明治開国後、選ばれた秀才が洋行しました。彼らの多くは二十歳過ぎで外国に目をみはり、心酔しました。森鴎外はドイツで医学を学びました。彼の歴史ものではそんなことはありませんが、明治当時の日本のインテリの描写ではやたらに外国語が出てきます。「egoistiqueよりaltrustiqueの方になる」「misanthropeらしい処がありそうに思ったのに」「小さいtriompheを感じて」などというフランス語や「本当のフィリステルになりすましている」などとドイツ語が頻出します。自分の子供の名前は於菟、茉莉、不律、杏奴、類とドイツ名をつけました。
やはり文豪と言われた谷崎潤一郎の「肉塊」(1921年)という小説には横浜のクリッフホテルの外人の多く集まる舞踏会に誘われた主人公が「そういう花やかな(ママ)社会があることは聞いていたけれど、皮膚の黄色い日本人の彼には近づき難いもののようにきめていた」とあります。今のみなさんから見ると「マジ!?」と思うでしょうが、こういうインフェリオリティ・コンプレックスが日本の昔のインテリにはあったのです。
こうした外国崇拝は、軍国主義台頭とともに影をひそめたようですが、戦後すぐ復活しました。これには経済力の圧倒的な違いも拍車をかけました。このため戦後も外国にかぶれた人がいました。フランスに行った人はにわかワイン通になり、アメリカに行った人はTシャツ、ジーンズでないと窮屈だといい、イギリスに行くと英国紳士を気取ったものです。外国のファーストネームを自らの愛称にする人もいました。逆に外国で友達もできず、なじめなかった人は、外国嫌いになりました。急に日本文化信奉者や国粋主義になる人もいました。日本の経済が復興すると、もう外国に学ぶことはないとうそぶく人もいました。
もちろん大人になってから行った人でも皆が皆外国かぶれか外国嫌いになったというわけではありません。バランス感覚を持ってきちんと対応していた人たちもありました。
多くの帰国子女は、上に述べたような外国かぶれや外国嫌いよりずっとしたたかです。大人のように学歴とか仕事とかのヨロイもなく言葉の通じない集団に放り込まれるのです。単なる転校生だって緊張するのですが、その何倍も大変です。初めはどうしてこの中でやっていくのか不安があるはずです。差別やイジメを体験することもあります。しかしそこを乗り越えると自信ができます。初めからスムーズに外国生活になじんだという幸運な人もいるでしょうが少ないと思います。そして外国人もけっしてひとくくりには出来ず、大きな体だが気の弱い人、やさしい人,気難しい人、などいろいろいることを体得していきます。個と個としての付き合い方を身をもって体験するのです。妙に外国に合わせ過ぎるとかえって尊敬されないことも知ります。野球選手を見てもイチローとかオータニの名前でなじまれています。私は海外赴任にともない娘二人を外国の小学校、中学校、高校に入れました。日本でせっかく学校になじみ、友達もいる中から一人引きはがして言葉も分からない新しい環境に放り込むのです。けっしてワクワクして行くのではありません。むしろドキドキでした。勉強だって初めから楽々ついていけるわけではなくかなり苦労していました。ふびんでしたが、私自身の体験から、つらくても長い目で見ると結局ためになると確信していました。
帰国子女の次の関門は帰国です。かつては多様性を認めず画一性を貴ぶ狭い了見で、疎外されることもありました。そのため帰国生の多くは、自分の外国体験はあまり語らず、波風立てない生活を過ごすことが賢明だという処世術を体得してきました。
時代はまた大きく変わりつつあります。視野の広い帰国生は学校や地域、ひいては国の財産という意識が生まれつつあります。皆さん、ぜひ日本に帰って新しいより開かれた多様性のある国造りに携わってください。おおげさでなく日本の将来は、皆さんにかかっていると思います。
なお私自身の体験を書いた「まだ間に合う」という本を今年、講談社現代新書から出しました。ご関心があれば御覧頂ければ幸いです。
ネットの現代ビジネスでの内容紹介 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/92263
Amazonのページ https://www.amazon.co.jp/dp/4065272939
筆者プロフィール 小学校低学年はインドネシア、中・高はフランスで過ごす。代ゼミ帰国コースを経て、東京大学教養学部入学。イギリスの大学院を卒業した後、JICA、国際NGO、UNHCR等に勤務。
5歳でインドネシアの空港に降り立った瞬間を、私は今でも鮮明に覚えています。湿気が多く熱い空気を吸い込み、美しい木彫りの彫刻が施された空港の廊下で、何か新しいことが始まりそうな予感でワクワクしたことを思い出します。それから私は高校卒業までの 14 年間、インドネシア、日本そしてフランスの間で移動を繰り返して過ごしたのですが、その生活は今の私の基礎となる部分を形作ってくれたと考えています。
まずひとつは、新しい環境を楽しむ術を手に入れたことです。子供にとって転校は簡単なことではありません。友達との別れ、新しい出会い。11 歳で渡仏した時は語学を学び、新しい環境に馴染まねばならず大変でした。しかし、そこで嘆いていても仕方がないと、私はそれを一つずつ楽しもう!とする努力をするようになりました。「休み時間」という言葉が分からず突然一人教室に取り残された時。スペリングのテストで 0 点だった時。人生こんな経験すること滅多にないな、と内心笑いながら休み時間という単語を覚え、次のテストは3 点を目指そう、と思ったことを覚えています。今でも新しい環境に身を置くことが好きで楽しいと思うのですが、これは子供のころの経験によるものだと思います。
もう一つは自分の「当たり前」が必ずしも「当たり前」ではない世界があるということに気づかされたことです。インドネシアで見た貧困や、フランスの校則、礼儀、社会階層の分断など、当時の私の「当たり前」では理解のできないことが沢山ありました。その後、暮らしていく中で、それまで不思議だと思っていた事を理解することができ、自分の新しい「当たり前」が作られて行く過程を実感することもできました。
日本で生活をしていないが故に、学べないことや体験できないことは多くあります。漢字が書けないことや、日本の同年代の子との会話についていけないことに引け目を感じることは何度もありました。しかし、それは逆に日本にいなかった時間があるからこそ得られる知識、価値、感情などが沢山ある、ということでもあるのです。
高校を卒業するまでフランスでの進学を考えていたのですが、卒業後、急遽帰国を決断したのは、私は周りの友達に比べ日本という国に簡単にアクセスすることができ、知らない社会や言葉(要は日本社会と日本語)を学ぶことができる優位性を持っている、と考えたからです。今から考えると少しちぐはぐに思えますが、当時日本が遠くに感じられていた私には、非常に魅力的な考え方でした。
大学入学後は本当に良き友人、教授に囲まれ刺激の多い日々を過ごしていました。ただ学生時代を通じ悩み続けたことは、様々な場面で私が「日本人である」から、ある種の「当たり前」の行動をすることが社会から求められたことです。言葉遣い、先輩との関係、バイト先での立ち振る舞い。私にとっては新鮮なことばかりだったのですが、私のバックグランドを知らない人たちからは、なぜ当たり前のことができないのか、同じような言葉遣いができないのか、些細なことで不思議な目で見られました。
このような経験を経て、「日本人」とは同じ言語や行動規範、礼儀を共有した人々であるという認識が、まだ「当たり前」なのだと気づかされました。もっと多様な社会があっていい、人間それぞれ異なる経験をし、異なる「当たり前」をもって、ぶつかり合い関係を築いていく社会があったらいい、と少し理想論ではありますが、そんなことを考えるようになりました。
今は国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)に勤めています。UNHCR は難民への支援を実施する国連の一機関ですが、多様な社会の中に自ら身を置き、またそういった価値観を広めたいという考えから出た一つの答えでした。リビアやシリアで強制的に移動を強いられる人々の暮らしを支援しました。「移動」が人々の命を救う手段であったり、新たな夢をかなえるための手段であったり。紛争等で強制的に移動を強いられることは決して推進すべきことではありませんが、難民や移民と呼ばれる人々が、国境を越えそれぞれの「当たり前」を新しい社会に提供することでより多様な社会が構築されていく、そんなプラスな側面も秘めているのではないかと思っています。
今海外でそれぞれ貴重な経験をされている受験生のみなさん、みなさん一人ひとりの豊かな体験とそこから生まれる考えが新しい世界を築いていく糧になると私は考えています。今できる経験を大切にし、誇りをもって、今後の進学に挑んでいただけたらと思います。
筆者プロフィール 北鎌倉女子学園学園長。東京大学名誉教授。東京大学大学院工学系研究科化学工学専攻博士課程修了。ハーバード大学大学院准教授・併任教授などを経て、2011年度から2020年3月まで開成中学校・高等学校校長を務める。2020年4月から現職。
東京大学大学院の博士課程を終えた私は、空気の汚れなどの公害問題の研究をしたいと考えていました。しかし、当時の高度経済成長の流れに水を差すということで、日本には私が職を得られる場所はありませんでした。研究を続けるため国際学会などに参加しながら、最終的にハーバード大学で教鞭をとることになりました。
日本ですべての教育を受けた私が、アメリカで講義をすることは想定外でした。英語については学生から私の言葉が分からないと言う不満が出ないレベルを目指し、代わりに論理が明確な分かりやすい講義の準備に努めました。なぜなら英語はどんなに勉強してもアメリカ人にかなうはずがないからです。人間がどのように物事を理解していくのかを考えて論理を構成し、そのプロセスに沿った講義を行うようにしたのです。私はOHP(現在のパワーポイント)を90分授業で80枚くらい作り、そこに論理の流れになるキーワードを全て書き込みました。教室の大きなスクリーンに映してその単語を指しながら講義をすると、学生は私の英語を聴覚と視覚で理解できるので、私の授業は分かりやすいと学生から好評を得ることができました。
海外での苦労といえば、その土地の常識というものは誰も説明してくれないということです。アメリカにはアメリカの生活の中で皆が共有する常識というものがあり、それは皆が意識しておらず、そのことについて質問されても、何を聞かれているのかまったくわからないのです。相手は「なぜこんなことがわからないの」という顔をするけれど、常識を持っていない人にとっては不思議でわからないことがたくさんあるのです。
大切なことは、無い物ねだりをしないことです。海外で生活した皆さんは、日本の教育経験が不足しています。しかし、不足を嘆くより、海外と日本、両方の教育経験があることを最大限に利用して、自分にとってより良い選択をすることが大切です。何歳から海外にいたのか、現地校に通ったのか、どういう語学を勉強したのか、どういう教育を受けたのか、皆がそれぞれ違います。より良い選択を積み重ねていくことで、比類のない力強い自己が成長していくはずです。コロナ禍の今は、思うようにいかない状況ですが、与えられた環境の中でより良い選択を心がけてください。
現在、日本でもアクティブラーニングが効果的な教育法として普及してきました。カタカナで表される言葉は、その本質が十分に伝わらない場合が多いので、私は「脳動学習」と訳しています。生徒が教室の中で脳を動かす学習です。人間にとって大事なことは、脳を動かす、頭を働かせる、頭で考えることです。その楽な実践法として、比較しながら考える方法があります。右の道はこんな感じ、左の道はこんな感じ、と自分の頭の中で思い浮かべながら思考するのです。
帰国生の皆さんは、比較して考える機会に非常に恵まれています。例えば、アメリカやアジアの教育を受けつつ日本の教育情報も得ることができます。教育方法や内容の違いを比較しながら取捨選択できれば理解と知識が深まります。帰国生の皆さんはそういう機会に恵まれているのです。皆さんは、日本での進学を考えると、流れから外れていることに不安を感じるかも知れませんが、決してそうではありません。比較しながらものを考える、頭を働かせるという意味で非常に良い機会に恵まれていることを自覚してほしいと思います。
もう一つ伝えたいことは、苦手な分野を補強するのではなく、得意分野を伸ばすということです。日本ではジェネラリストが優遇される時代の終焉が見えてきました。満遍なくできるより、「私はこれができます」というスペシャリゼーションを持っている人間が求められる時代を迎えています。自分がカバーできる範囲は狭いかもしれませんが、就職した会社が倒産しても身に付けた専門分野で世の中を渡っていくことができるのです。帰国生の皆さんは、専門や得意なものでお互いを尊敬しあえる文化の中で育ち、これからの時代に適した経験を積んでいます。ですから、今後の進路を考える際には、自分の得意なところから次の発展を考えることのできる選択を心がけてください。
コロナ禍で気持ちも暗くなりがちですが、何も生み出されないと考えるのではなく、今自分が置かれている状況を最大限に活用することが一番であり、きっとこれからの人生の糧になるはずです。
筆者プロフィール 上智大学国際教養学部を卒業したのち、同大学院グローバルスタディーズ研究科を修了。専攻は政治学。国際教育センターでは一方通行ではない、対話を重視した授業を行っています。
18歳で初めて挑戦した大学受験。結果は散々でした。センター試験の英語の得点率は3割に満たない(ちなみに平均点は約6割です)状況でした。国語と世界史と3教科で受験しましたが、明らかに英語が足を引っ張っていました。そこから(今振り返ってみれば大胆なことをしたと思いますが)、これまで英語に対し抱えていたコンプレックスをなんとか克服したいと、「英語だけで授業をする」大学を志望校に決めました。浪人の1年間、必死で勉強し、結果TOEFL®とSAT®で大学受験を突破しました。大学では多くの帰国生と出会い、ともに勉学に励みました。卒業後、大学院で政治学を学んだ末、あるきっかけから予備校の世界に入り、今では本部校、新潟校、名古屋校で一般生を指導する他、国際教育センターで帰国生の指導にもあたっています。大学での経験、またこれまで講師として得てきた教授経験をもとに、帰国生のみなさんへのアドバイスをできたらと思います。
まず、よく帰国生のみなさんが持つ、入試は「特殊」な試験という先入観を捨ててもらいたいと思います。帰国生を指導していると、「こんな英語は使わない」「この英文はちょっとおかしい」などという声をたびたび耳にします。確かに、一部の文法問題では、実際に英語を日常生活の手段として用いてきたみなさんからすると、少し違和感を覚える部分はあるでしょう。ただ、そういった問題は一部であり、それは日本で外国語として英語を学習している一般生の理解度を確認するために意図的に作られた問題であることがほとんどです。つまり、入試はTOEFL®などと比べて「特殊」であるということはないと認識してください。
では、みなさんは入試をどうとらえるべきなのか。入試=「学問の世界への入り口」と考えるべきだと思います。帰国生入試を研究した結果、問われている力は主に次の2つであると私は認識しています。それは①抽象的な英文を正確に理解できる力、②抽象的な英文を読んで理解したことを、適切な日本語で表現できる力です。
TOEFL®のReadingで出題されるpassageを思い出してみてください。普段読んでいる文章より読みにくいと感じませんか?もしそう感じるとしたら、それは抽象的だからです。学術的な文章は、普段みなさんが目にする新聞や雑誌の文章に比べ、抽象度が高い文で構成されています。こういった「読みにくい」英文を読み、理解することが大学で勉強すること、つまり学問をすることになります。その基礎(土台)ができているのかをチェックするのが入試の役目なのです。
次に、理解したものを日本語で表現できるかが問題になります。日本の大学に通う以上、講義の多くは日本語で行われ、レポートも日本語で書く必要があります。実際に、英語で全ての授業を行うと謳っている大学で学ぶ場合でも、どうしても日本語で書かれた文献にあたる必要がでてきます。つまり、①のポイント同様、今後、大学で学問をする基礎があるかを見極めるために、日本語での表現力も確認しておく必要があります。その証拠として、帰国生を対象とする入試問題では記述式の読解問題が主体になっているのです。帰国生入試の場合、一般生が選択式のマークテストを受ける機会が多いのに比べ、圧倒的に日本語で記述させる読解問題が多く出題されます。
まずは、入試対策としてTOEFL®の教材などに取り組んでいるのであれば、Readingのセクションを強化することを勧めます。入試に強い学生とそうでない学生の違いは、全体のスコアを上げることはもちろん大切ですが、特にReadingのスコアと入試結果が如実に関係しているように思います。それは先ほど述べたように、日本の入試問題が読解問題を重視していることからもわかると思います。また、英検などの資格試験の読解問題にも挑戦してください。
次に、日本語で書かれた新書などを読む習慣をつけることをお勧めします。日本語の表現力は、みなさんが英語でエッセイを書く力を身に付けたのと同様、一朝一夕には付きません。代ゼミに入学される生徒さんを見ていると、毎日のように本を読み、毎日のように小論文を書く練習をしています。ですので、今のうちから少しずつでいいので、普段会話ではなかなか耳にすることがないような、抽象的な文章を読んでおくことが後のち大きなアドバンテージとなります。
夏に開講するまでに、この2点を意識しご自身で準備を進めてください。
みなさんに、代ゼミで会える日を心から楽しみにしています。
筆者プロフィール 大学・大学院では環境工学を専攻、交換留学生としてカナダのWaterloo大学でも学ぶ。2007年に環境省入省。気候変動、化学物質・廃棄物管理等を担当。2015年に半年間、米国環境保護庁(EPA)で勤務。二児の母。
大学時代に交換留学でカナダに滞在した時、現地の友人から「日本っていい国だよね、日本の技術は素晴らしくて、日本の製品は壊れない。アニメやゲームもかっこいい」と言われたことは、私にとってちょっとショックな出来事でした。海外から日本を見たことのある皆さんは、なぜ?と思うかもしれませんが、それまで日本でしか暮らしたことのない私は、日本を意識したことなんてありません。この経験をきっかけに、「日本って結構いい国なのか。日本人としての私ができることって何?」と考え始めました。
大学の研究でカンボジアの水質調査をした時、立ち寄った病院で栄養失調でおなかが出ている笑顔の子どもたちに会いました。病院の裏の川にはたくさんのごみがそのまま捨てられ、川一面浮いていた光景を目の当たりにし、「この子たちのために、何かしてあげたい」と思いました。
電気はこまめに消す、水を汚さないようにお皿の油は布で拭き取ってから洗うといった家庭環境で育った私は、幼い頃から環境問題に関心があり、大学では環境工学を学びました。日本の環境技術は世界に誇れるものです。この「日本のいいところ」を活かして、世界の環境問題の解決に携わりたい。国レベルで世界を変える大きな仕事をしたい。そう思い、環境省で働きたいと思うようになりました。
環境省は日本の行政機関ですが、もちろん日本国内だけを向いて仕事をしている訳ではありません。日本は1960年代の高度成長期に大気・水質汚染、それに伴う水俣病などの公害病に悩まされ、その問題を解決してきました。この経験を基に、昔の日本と同じように大気・水質汚染などの問題を目の前に抱えている中国などの途上国に対し、日本がどうやって問題を解決してきたか、どのような環境技術を導入してきたかなどを紹介し、国の政策に取り入れてもらうよう働きかけをしています。そうすることで、その国のためにもなり、大気や海を共有し、経済でつながる日本にとっても有益となります。また、地球温暖化や海洋プラスチックごみは、地球規模での解決が必要な問題です。
このように、環境問題の取組を国際的に進めていくことは環境省の重要なミッションの一つですので、国や立場の違う人間と話し合いながら、プロジェクトや取組を進めていく場面が多々あります。例えば私の場合、入省2年目の2008年にポーランドで開催された気候変動枠組条約COPで日本代表としてスピーチしたことを始めとして、水銀に関する包括的な規制を定める「水銀に関する水俣条約」や有害廃棄物の越境移動条約の交渉に携わったり、国連や他国の代表とともに、PCBや水銀廃棄物管理の国際的なガイドラインづくりをしたりしました。一番やりがいを感じたのは、水俣条約の合意の瞬間に立ち会えた時です。連日、深夜まで及ぶ交渉の末、異なる国々の意見が一つになった条約ができた時、会場の出席者が皆立ち上がり、拍手が鳴りやまなかったことに感動しました。
国際経験のある皆さんに期待することがいくつかあります。
1つ目は、自分の意見や考えを持ち、他者にわかりやすく説明ができること。ニュースで取り上げられる問題や学校での話題について、何が問題なのか、その問題に対して自分だったらどう考えるか、自分だったらどう解決するか、と問いかけ、なぜそうなのかも含めて答えを探す習慣をつけてください。皆さんの中にはすでに得意な方も多いでしょうから、その得意を伸ばしていけば、強みになると思います。
2つ目は、コミュニケーション力を伸ばすこと。交渉による合意形成とは、自分の意見を主張して相手を論破することではありません。自分の意見を伝えて、相手の意見もよく聞いて、お互いが納得できる妥協点を探す作業だと思います。このためには、コミュニケーション力が必要です。仕事を一緒にする相手がいる限り、これはどんな仕事にも共通することだと思います。
3つ目は、今しかできない経験をいっぱいすること。「百聞は一見に如かず」で、いろんなものをできるだけ自分の目で見て確かめてください。クラブ活動に没頭したり、工夫したりした経験、友人関係で悩み、解決した経験・・・すべて、将来の自分の糧になると思います。自分が経験したことは、メディアで得た情報と比べ物にならない説得力をもち、時にはカンボジアでの私の経験のように、自分の進路をも導くと思います。日本以外の国で生活した皆さんには、違った価値観や文化・環境に触れた経験があります。これをアドバンテージとするために、経験を深めていってください。
最近日本では、気温の上昇や豪雨の増加など、気候変動とその影響が現れていて、熱中症や豪雨災害で命を落とす方もいらっしゃいます。今後、地球温暖化の進行に伴い、このような豪雨や猛暑のリスクが更に高まると予測されています。気候変動問題、海洋プラスチックごみ問題など世界の環境問題は待ったなしです。これらは遠い国の出来事ではなく、皆さんの生活に直結する課題です。
私は二児の母として、この子たちが大人になった時に住みよい環境にしてやりたいと強く願います。皆さんも、自分の将来のために、子どもや孫たちの未来のために、何ができるか考え始めませんか?
筆者プロフィール 長い間帰国クラスの数学の指導に携わっていますが、開幕前のワクワク感は変わりません。そんないつも感じていることを書いてみました。
昨年の7月初旬。帰国大学受験コース理系クラスの最初の授業の時、はじめて会う受講生を相手に私はこう話し出した。
「初めまして、数学科講師の大塚です。今年もこのステージに立ち帰国生の皆さんにこうして話ができることを非常に嬉しく思っています。そして私はまた来年もこうしてこのステージに立っていたいと強く思っています。」
私は大学院の学生だった平成元年(1989年)、当時原宿にあった代ゼミ中学部の講師として、初めて代ゼミの教壇に立ち、キャリアをスタートさせた。これとほぼ時を同じくして、『数学は暗記科目だ』と題する1冊の本が刊行された。著者はこの中で「定義、定理やそれらを利用した問題の条件解釈のイメージをしっかり理解しながら、問題演習を通じて定着をはかる」(※)という当たり前のことを主張した(決して丸暗記で良いとは言ってない)のだが、そのセンセーショナルな表題が注目を集め、数学は暗記なのかどうなのかという議論がたいへん盛り上がった。そしてこの手の論争はいまだに見かける。ところがそれぞれの主張の中身を見てみると、自分は筆者とは違う立場だとして意見を述べている人たちも結局のところ(※)だと言っているものがほとんどだった。
受験生の皆さんは、(※)を意識しつつ着実に経験を積み重ねることで数学を得意科目にしていこう。
大学院を出た後、そのまま代ゼミ中学部にお世話になることとなった。その後教える生徒の対象が大学受験科など徐々に広がっていく中で、帰国大学受験コースにも出講することになった。
帰国の理系クラスは夏から始まり、Ⅰ期と称する最初のカリキュラムは8週間ある。その中で数学は1コマ90分の授業を1日3コマ4週間+2コマ1週間というかなりハードなスケジュールである。最初は、生徒はきっと疲れ果ててしまうだろうし、やる気もそんなにはもたないだろうと考え、どうやってみんなに完走してもらうかをいろいろ考えて授業に臨んだ。
ところがその心配は杞憂に終わった。疲れ果てるどころかむしろ毎日、昼休みになっても問題を解くのをやめようとしない生徒が続出し、こちらが休憩してお昼を食べるよう注意する始末。1日の授業が終わってもなんとか問題を解いてから帰ろうと粘る生徒も毎日いた。また最初に少し促しただけで、苦手な生徒を得意な生徒がフォローするのが当たり前になった。当時の一般生の授業は大教室で大人数を指導するものが大半で、もちろんそれはそれでやりがいも喜びも大きいものがあったが、一方では、少人数で個々の生徒と密にやりとりしながら成長を実感できるような授業もしたいと私は思っていた。それがいきなり目の前に現れたと歓喜した。そして翌年もこのステージに立ちたいと強く思い、実績を出すべく懸命に授業を行った。それを繰り返して今日に至っている。冒頭の言葉には、「今私がここにいるということは、前年度の受講生が幸せな結果を出してくれたということで、来年も私がここにいるということは、今ここにいる皆さんが幸せになる結果を出すということです。つまり、皆さんと私はWIN-WINの関係なのです!」という気持ちが込められている。
さて、冒頭の呼びかけから始まり、およそ8ヶ月にわたり指導してきた昨年度の理系クラスの結果はと言うと……東大・北大・東北大など難関大学へ合格者を出すことができ、また受講生全員が各自の目標にそった大学への進学が決まり、非常に嬉しい結果となった。すべては生徒各自の頑張りによる結果であり、たいへん感謝している。
もうすぐ今年度の開幕を迎える。もちろん主役は帰国生の皆さん一人ひとりだ。中には不安な人もいるだろうが心配はいらない。大きな野望とやる気を持ってステージに上がってほしい。それさえあれば講師やスタッフによる手厚いサポートの下、必要な経験を積み重ねることで欲しい力は手に入る。私もまた今年も講師の一人として同じステージに上がれることを心から嬉しく思っている。平成とともにスタートした私の代ゼミでのキャリアもいつのまにか30年を越え、元号も令和と変わったが、初心を忘れず、これからも熱い講義を展開しつつ生徒とともに成長していく所存である。
筆者プロフィール エジプトのカイロで9年間過ごし、帰国後は代ゼミ国際教育センターに通う。2007年横浜国立大学に入学、学生時代も代ゼミのチューターとして帰国受験に関わる。大学在学中に1年間アメリカに留学。卒業後は日本赤十字社に入社、現在はカタール航空の客室乗務員としてドーハ在住6年目。世界中を飛び回る一方、アフリカの孤児院でのボランティア活動を始める。
私が代ゼミで帰国受験の勉強をしたのが約12年前。Time fliesと言う通り、月日が経つのは飛ぶようにあっという間です。私は普段飛行機に乗る仕事をしています。私が働いているカタール航空では約15,000人の客室乗務員がいて、国籍も約150ヶ国というとても国際的な職場です。毎回違う就航地に違うクルーとフライトをするため、お客様も同僚も国籍や年齢や宗教はそれぞれ。とても刺激的な毎日を過ごしています。例えば、インド行きのフライトではお客様のほとんどがベジタリアンだったり、イスラム教の断食月にあたるラマダン中にムスリムの同僚が断食をしている隣で食事をするのが申し訳なく思えたり…。こんな生活もストレスではなく楽しむことができているのも、高校時代をインターナショナルスクールで過ごした経験が多少なりとも影響しているのかなと思います。今になって思うのですが、高校時代に海外で過ごした貴重な経験は、気づかないうちに自己形成に大きな影響を与え、将来の仕事や生活に必ずプラスに働いていると実感しています。
そんな元帰国生の私から現在海外で過ごしている皆さんに、帰国受験に向けて今どのような生活をしたらいいか、私自身の経験を踏まえて少しだけアドバイスさせていただきたいと思います。
日本の大学に入ったら、授業やゼミなど学生生活のほとんどは日本語を使うことになります。そのため、多くの大学は帰国生入試に日本語の小論文や面接を取り入れています。これは、日本語による大学教育を不自由なく受けられるかどうかを大学側が見ているのだと思います。また少し先の話になりますが、日本の大学に進んだあと日本の企業に就職することになった場合、日本語が拙ければ仕事に支障がでるはずです。あなたが日本の大学で勉強したいと思っているのであれば、日本語の勉強を忘れないようにしてください。日本語より英語の方が得意な帰国生の知り合いが言っていました。彼女は社会人になってから、英語で書く書類は何も注意を受けないけれど、日本語の書類を書くと必ず文法を直されると。もちろん海外にいるうちに英語やその他の言語を学ぶことはとても重要なことです。しかし、日本語で小論文を書いたり面接をする練習は、帰国受験の時だけではなく、その後の生活にも必ず活きてくることを忘れずにいてほしいと思います。
私は代ゼミで帰国受験対策をする前まで、まさか国立大学に入れるとは思っていませんでした。しかし代ゼミで先生や先輩方の話を聞いていくうちに、センター試験を受けずに国立大学を受験できることを知り、受けてみようという気持ちになりました。実際に、入学してからセンター試験を受けて大変な受験戦争を乗り越えてきた友人達の話を聞くと、私は帰国枠を利用できて本当に有り難かったなと思いました。もちろん海外での生活や、帰国受験に向けた勉強は決して楽なものではありません。私もインターナショナルスクールで初めて英語での授業を受けた時はさっぱり内容が分からず、友達もできなくて辛いものでした。しかしその海外生活で培った経験はとても貴重で、今思うとその機会を与えてくれた両親に心から感謝しています。日本で過ごしている高校生とはまた別の大変さを味わっている皆さんには、是非帰国受験で少し背伸びをして自分の行きたい大学選びをしてほしいと思います。帰国受験では何が起こるか分かりません。上を目指して努力すれば必ずそれは報われて、合格を掴み取れるはずです。海外生活で苦労してきた皆さんなら、きっとその困難も乗り越えられると信じています。
今大学選びをしている方の中で、将来何をしたいか分からないから学部選びにつまずいている方もいるのではないでしょうか。今将来やりたい事を決めてそれが10年後どうなっているかなんて誰にも分かりません。私も帰国受験をする時は、ぼんやりと国際協力や開発援助に携わりたいと思っていました。これは高校時代を過ごしたエジプトで、貧富の差を目の当たりにした経験からそう思うようになりました。しかし12年経った今私は客室乗務員として空を飛んでいます。ですがやはり12年前に思い描いていた事は今でも心の中にあり、仕事で訪れたアフリカのナミビアの孤児院でボランティア活動を細々とですが始めました。空を飛ぶ仕事も楽しいですが、その傍らで昔からやりたかった国際協力を自分なりに始めることができ、今置かれている環境に本当に感謝しています。
このような経験を経て思ったことは、本当にやりたい事はいつでもどんな形でもやる気があれば叶うということです。決して職業という形でなくても、大学を卒業してすぐでなくても、自分の心の中でやりたいと本気で思っている事は自分次第でどんな形でも必ず実現できます。もし今やりたい事が何か分からないという方も焦ることはありません。今この時期に将来の全てを決めなくてはいけないということはないのです。大学受験はそのことを考えるきっかけを与えてくれているのです。今あなたが海外で過ごしている貴重な経験はあなたの中に宿っていて、将来必ず活かされるはずです。今しかできない事を思いっきり楽しんで、海外でしかできない素晴らしい思い出をたくさん作ってきてください。
日本に帰国し、受験となると不安なこともたくさんあると思います。しかし海外で言語も文化も違う環境を乗り越えて生活している皆さんであれば、受験の壁も努力して必ず乗り越えられるはずです。皆さんが、海外での思い出や経験をたくさん持ち帰って、大きく羽ばたいていってくれることを心から楽しみにしています。
筆者プロフィール 代々木ゼミナール国際教育センターにて、現代文・小論文を担当。長年続けてきた音楽活動に区切りをつけ、最近は専らキャンプ&焚火に夢中。
大阪南校で現代文・小論文を担当している盛岡です。帰国クラスを受け持つようになって20年近く経ち、生徒からもよく「先生も帰国生だと思っていた」などと言われるのですが、私自身は日本の教育制度で学んだ一般生です。ただ、学生時代の友人に帰国生が多く、今でも最も仲のよい親友は帰国生です。帰国生とは何故かウマが合うようです。
そんな私にとって帰国生の一番の魅力は活気があること。これはかなり重要なことだと思っています。こちらからの働きかけに素直に反応を返してくれるので、授業も活き活きとしたものになり印象も深まります。活気がありすぎて圧倒されそうになることもありますが、シーンとした教室で一方的に話し続けるような授業より何倍もの楽しさや充実感があります。
私は一般生のクラスも長年教えてきましたが、そんな授業にはなかなかなりにくい。日本の学校に通ったことのある人なら想像もつくかと思いますが、授業で各々が意見しそれに対して皆で一緒に考える、などということは高校生にもなるとあまりない。入試勉強ですし「楽しく授業を」とばかりも言えませんが、和気藹々と、しかも真剣に積極的に参加してくれる帰国生の授業はとても充実しています。
さて、現代文・小論文指導の立場からの具体的な学習アドバイスとしては、まず語彙力をつけることです。日常会話での日本語と入試の問題に出てくる日本語のレベルは確実に違います。出題される文章の難度が上がれば出てくる語彙も当然難しくなりますし、日常会話では使わないような言い回しも当たり前のように出てきます。海外滞在中も意識して日本語の語彙を増やす努力をしてほしいのです。
日本語が苦手という人にお薦めなのは漢字の問題集の活用です。最近の問題集は言葉の意味も書いてくれているのでこれを活用しない手はありません。漢字を覚えながら言葉の意味も学んでいけば一石二鳥です。漢字も語彙力もある程度自信があるという人はできるだけ多くの日本語の文章に触れ、知らない言葉や言い回しをその都度こまめに調べて覚えていくようにしましょう。言葉の習得には地道な作業が必要です。
それともう一つ、読むことをおろそかにしないように。「帰国入試→小論文」という連想からか書くことばかりに意識が向きがちですが、文章が読めないのに書けるという人はまずいません。また、実際の小論文の入試問題でも課題文の内容を説明したり、まとめたりすることが多く課されます。実は、小論文の練習を積んで自分の考えを述べることに慣れてきた人でも意外とつまずきやすいのがこの部分です。内容や問われていることを把握し損なって、見当違いの意見を述べてしまう場合も多く見受けられます。文章を読むというのは書き手の意見に耳をすませることです。そして、その意見をよく聞いた上で、それについてどう考えたかを他の人にもわかるように文章にして述べるのが小論文です。「読む」と「書く」、どちらの力も重要です。
帰国生と一括りに言いますが、滞在国や滞在年数、滞在形態も多種多様です。しかし、いずれにせよ共通して言える帰国生の強みとは、日本という社会や文化を距離を置いて見る(=対象化する)ことができるということだと私は思っています。日本でしか暮らしたことのない私のような人にとってそんな機会はあまりありません。
もちろん日本で暮らしていても、海外の情報や海外の国から日本がどう見られているかといった情報はいくらでも手に入るようになりました。しかし、そうやって手に入れた情報も結局は知識でしかなく、どれだけ知識を集めて理解できたような気になったとしても、それは経験に裏づけられた実感とは程遠いものです。それに対して、実際に外国の社会や文化の中で暮らすことで身に付いた感覚は、単なる知識の集積に代えることのできない貴重な生きた感覚です。
海外で暮らしたからこそわかる日本らしさ、その良いところや悪いところを一方的に称賛するのでも否定するのでもなく、距離を置いて冷静に眺める機会を持てるのは、何ものにも代え難い素晴らしい経験だと思います。そして、皆さんはそれぞれの国の文化や価値観などの良いとこ取りができる立場です。だからこそ、その立場から自分の考えや意見をどんどん発信していってほしい。それがこれからの日本を少しずつでも確実に良いものにしていける礎になると思いますし、日本の大学が皆さに期待することの一つにその役割があるように思うのです。
筆者プロフィール きみじま あきひこ。1986-88年、1994-95年、2007-08年、2012-13年の計4回、累計5年間、シカゴ大学およびワシントンDCのアメリカン大学で、大学院生、客員教授、客員研究員として過ごした。専門は憲法学・平和学。
海外の高校で学んで、帰国して日本の大学に進学するってどういうことだろう。留学ってなんだろう。
それは「越境」するということだ。
人類の歴史は越境の歴史であり、越境による進歩の歴史だ。
人間は昔から越境=留学してきた。日本から東シナ海を渡って中国へ行った遣隋使、遣唐使、最澄、空海は留学の典型である。わたしは留学=越境には3つのタイプがあると思う。
1つ目は「巡礼」。これは先進国へ行って、最先端の学問や制度を学び、輸入するというタイプである。最澄、空海はこの古典的事例であり、明治時代の作家・軍医、森鴎外 のドイツ留学、あるいは大日本帝国憲法を起草した伊藤博文のウィーン留学もこれだ。
2つ目は「放浪」。これはいわば「自分探しの旅」である。中世ヨーロッパにも放浪学生が多かったという。作家・永井荷風は20代に、米国とフランスに滞在したが、これは放浪だろう。
3つ目は「結果としての越境」。自分の学びたい学校、大学を探しているうちに、結果として越境することがある。たとえば、いま神経科学(脳科学)の最先端を学ぼうとすると米国の大学になるだろうし、食科学を学ぼうとするとイタリアの食科学大学になるかもしれない。
いずれにせよ、留学の本質は越境だ。海外の高校で学び、帰国して日本の大学に進学しようとする帰国生も越境している。ジャン=ジャック・ルソー(1712-1778)の『エミール』(1762)は教育論の古典だが、ルソーは教育の総仕上げは留学=越境だと言っている。越境することによって人間と社会がよく見えるのである。越境する帰国生には、越境していない他の人々よりも人間と社会がよく見えているはずだ。
越境することによって、我々は自分自身をそれまでとは異なった環境に投げ込むことになる。そうすることで、我々は自分自身、日本、アジア、世界を再発見するだろう。越境は、我々を、無知と偏見、臆病と因習から解き放ち、自由にするのである。
カルチャー・ショックという言葉がある。異文化に出会ったときに受ける衝撃のことだ。とりわけ日本から外国に留学するときに問題にされる。わたし自身の経験からいえば、カルチャー・ショックを受けるのは留学=越境の醍醐味であって、カルチャー・ショックを味わうのは楽しかった。むしろ逆カルチャー・ショックの方が問題だろう。外国の文化、環境の中で暮らしてきた人が日本に帰国したときに、日本社会への適応に困難を感じることがある。帰国生はまさにこの問題に直面するだろう。しかし、帰国生は越境者としてのかけがえのない経験、優位性を持っているのだから、適応の困難を乗り越えてほしい。
わたしが勤務している立命館大学国際関係学部は、西日本初の本格的な国際系学部として1988年に創設され、2018年4月、創設30周年を迎える。東京大学教養学部国際関係論コースが国際関係学の東日本における拠点であるが、我々は国際関係学の西日本における最大の拠点である。でも、国際関係学って何?
国際関係学とは、国際社会をさまざまな切り口――政治学、法学、経済学、社会学、歴史学、ジェンダー論、メディア論等々――でトータルにとらえようとする学問のことだ。我々の学部は日本でもっとも包括的、総合的な国際関係学部である。さらに我々は、日本語で国際関係学を学ぶ専攻(国際関係学専攻)と、英語で国際関係学を学ぶ専攻(グローバル・スタディーズ専攻。日本語能力を必要としない)の2つの専攻を用意している。
我々は1988年の学部創設以来、つねに日本の大学教育の最先端を追求してきたが、創設30周年、さらなる挑戦を始める。それは、アメリカン大学・立命館大学国際連携学科(American University-Ritsumeikan University Joint Degree Program in Global International Relations)のスタートである。これは京都の立命館大学国際関係学部で2年間、ワシントンDC のアメリカン大学国際関係学部で2年間学んで、学士(グローバル国際関係学)という共同学位を取得するプログラムである。日米の大学で初の挑戦となる。詳細は我々のウェブサイトをご覧いただきたいが、簡単にいうと、米国の大学の強みと日本の大学の強みを組み合わせたハイブリッドのプログラムである。「越境する国際関係学部」ともいえる。
立命館大学はいま、Creating a Future Beyond Borders(超えていけ!)という理念をかかげている。我々国際関係学部も、越境する君たちを迎えるのを楽しみにしている。
筆者プロフィール 代々木ゼミナール国際教育センターにて、帰国生の受験指導に長年携わる。小論文の個別指導も担当。私立高校の講師もしつつ、野球・写真・音楽・美術・旅に興味津々の日々。
帰国生の受験のサポートを始めて、かれこれ25年ほどになります。随分月日が経ったことに、自分でも驚いています。
まだ、日本の学校に「帰国子女」がいることが少なかった時代のことです。代々木ゼミナールで講師をされていた私の恩師が声を掛けて下さって、帰国小論文の講義を受け持つことになりました。1日目の授業のことは今でも覚えています。ドアを開けると、きらきら光る眼が一斉にこちらを見ていました。質問を投げかけると、我も我もと手を挙げて発言する様子に圧倒されました。「日本の学校」とは違った雰囲気がとても気に入りました。
私は、帰国生の「個別指導」も担当しています。毎年6月末になると、海外の高校を卒業して帰国した生徒たちのガイダンスが行われます。小論文の勉強法を中心に45分ほどのお話をするために登壇し会場を見渡すと、少々不安そうな目や挑むような力強い目がこちらを見ています。企業の海外進出に伴う海外滞在者は、北アメリカやヨーロッパが多かった時代から、現在は東南アジアや中国などエリアは世界に広がっています。留学目的の生徒は、カナダやアメリカ、オーストラリアやニュージーランドだけでなく、最近では韓国や中国も増えています。滞在期間も2年ほどから18年と幅があります。それぞれの事情を背負って、緊張した面持ちでこれからの受験生活を送ろうとしている生徒たちを見ながら、ひとりひとりのためのアドバイスをしようと心に言い聞かせます。
帰国生の指導は、まさに「カスタムメード」です。例えば滞在国で生まれ、その国で教育を受けた生徒が来た場合、日本語に苦労するというケースが多々あります。英語力は問題ないのですが、日本語が全く書けないケースもあります。これらの生徒を何とかしなければなりません。授業外で漢字の練習からはじめ、小論文を書けるまでサポートします。ある生徒は日本語力に問題を抱えていたため、受験直前期まで時間内に小論文が書けませんでした。でも、他の生徒と同じプロセスをこなしていてはいつまでたっても追いつきません。「受験日に自分の文章が書ける」ことをゴールにすることで、無事その生徒は希望の国立大学に合格しました。生徒の頑張りを称えたいです。
また、学業以外の問題で受験勉強に身が入らないというケースもあります。国立難関校を目指していたある生徒は、家庭の事情を抱え、受験どころではないという状況が続きました。友達にも相談できず、度々私の所に来て胸の内を明かしました。学業に専念できないもどかしさ、家族に頼られることの重さは、どのようであったか。毎週毎週、ひたすらその生徒の話を聞き続けました。最後は生徒自身が自分の受験を優先する決意をして、無事に合格しました。生徒のプライバシーに配慮しつつ、生徒が自分で大事な決断をするまで、焦らず急かさず傍らで聞き役になることも、受験指導の大切な部分です。
これから受験を控えているお子様をお持ちのお父様お母様。遠く離れた外国で、お仕事をなさりながら大事なお子様を育てていらっしゃるご苦労と愛の大きさはいかばかりでしょう。また、単身で海外留学をするお子様のお父様お母様。最愛のお子様を送り出された勇気に胸を打たれます。毎日毎日心配でたまらないと思う気持ちで過ごされておられるのではないでしょうか。ですが、お子さんと今離れ離れになっているご家族の方は、ぜひ「遠く」からお子さんを応援してあげてください。日本に帰国して、親戚の家にお世話になっている生徒や、寮で暮らしている生徒は、辛くなるとご両親のことを思い出して寂しい思いをすることがあります。それでも、あえてその「寂しさ」に耐えることで、「自立心」「独立心」が増し、自分自身への「信頼」や「自信」が強くなっていくのです。こうした「信頼」「自信」は、必ずや試験本番の筆記試験や面接の力になります。私立大受験生は4ヶ月、国立大受験生は8ヶ月の受験勉強のなかで、生徒たちはしなやかな強さと揺るぎない自分への信頼を身につけ、一回りも二回りも大きくなって大学の門を叩くのです。
真新しいバインダーとペンを用意し、帰国生とお話をする時間を今から楽しみにしています。
筆者プロフィール 一橋大学法学部卒業。国際教育センター(帰国クラス)の他に東京本部校、立川北口受験プラザ、大阪南校に出講。代ゼミ講師歴24年。代ゼミ講師の前はプロ家庭教師歴10年。職業は一貫して受験教育。思えば長らく受験と関わっている。最近人生を振り返ること多し。このエッセイもその流れを汲んでいるのかもしれない、としみじみ思う。
私は、週に何回か母校の一橋大学図書館に出かけている。代ゼミの立川駅北口の校舎に行きがてら授業の準備やら、原稿の作成に重宝して利用している。大学図書館は時計台の下がメインの閲覧室で、そこで自由に調べ物や勉強ができる。この大学の学生になっている帰国生の教え子たちも多くいて、図書館や大学構内で出会うと挨拶してくれたり、声をかけられて立ち話に及ぶこともしばしばである。周りの学生は、「先生!」と呼びかけられている私のことを大学の教員と思っているかもしれない。
彼らから色々話を聞くと面白い。「先生、あいつ(匿名)は帰国生のくせに、語学の基礎クラスに入れられそうになったので、交渉して標準クラスに再編入してもらったんですよ!」「あはは、なにをやってるんだろうね。」
そうこうしているうちにその噂の彼に構内で出会うと、帰国クラスの時とはうって変って、凛々しい顔つきになっていた。「ずいぶん賢そうな顔つきになったね。」私にこう言われて彼曰く「いえ、先生僕はもともと賢そうな顔をしてましたよ!!」とにもかくにも帰国クラスの皆と大学で会うのは楽しい。受験生当時の彼らと、環境も変わり随分大人になった彼らとをつい比べて、皆の成長にまぶしさを感じる。
ここで話は過去にさかのぼる。
私は大阪の出身である。高校を卒業するまではずっと大阪で暮らしていた。思えばただ受験に向けた味気ない毎日の連続だった。当時の自分は悲しいことに、そんな自分の状況すらわかっていなかった。何となく空しい思いに捉われているだけで、それがなぜなのかわからないままにずるずると日々を過ごしていた。ともかく大学に入るために勉強していればいいと思っていた。高度経済成長期のそんな風潮の世の中であったのかもしれない。友達も特に必要ない。彼女なんてもってのほか、無関係の世界だった。今から思えば内面に潜在的な不条理を抱えた出来の悪い人型ロボットといってよかった。とはいえ成績が良いわけでもなく、全てにおいて中途半端だった。
いよいよ大学受験を迎えたが、志望校には合格できなかった。親も浪人して良いと言っていたので、一念発起して地元から離れ、志望校への合格を謳っていた京都の予備校に通うことになった(当時は代ゼミを始め大手予備校はまだ関西に進出していなかった)。予備校には下宿して通うことになった。予備校自体は高校時代とあまり違いはなかった。毎日が問題練習とテスト、成績ランクの掲示の連続だった。しかし、下宿は違った。「無法者」の集まりだった。平屋の大所帯の下宿で、合計10人の受験生が下宿していた。私には衝撃の「社会」だった。皆出身地もばらばら、通っている予備校も様々で、考え方、いや、そもそも世界観が全く違っていた。F田君は受験の諸費用は自分で稼ぐと称して働きながら予備校に通っていたが、髪型はアフロヘアー、バイト先はバーのバーテンであった。K西君はいつも下宿の台所でキャベツを炒めていた。一日数時間台所でキャベツを念入りに炒めていた。「こうすると将来結婚した時に奥さんの気持ちが分かるから」だそうだ。F中君は、基本的生活資材は他の下宿生からの調達で間に合わせるという生活スタイルだった。毎日各下宿部屋を回って食糧や日用品の余りを集めるのだった。そしてF中君の趣味は何でも集めることだった。困った時にはF中君の部屋を訪ねれば大抵のものは間に合った。皆個性的で自由だった。今まで会ったこともない人間たちの集まりだった。思えばまさに私にとって「異文化」体験だった。この下宿生活で私は変わった。初めて人生を自分で自由にコーディネートして良いのだと思えるようになった。
そうこうしているうちに受験の時期を迎えた。当初当然のように関西の大学を受験すると思っていた私に、先に一橋大に進学していた高校時代の友人から一枚のはがきが届いた。「おまえ、関西も良いが東京もいいぞ。一橋は、おまえに向いているんじゃないか。いっぺん赤本でも見てみ。」天啓とはこのことだった。東京、大学、自由…と気持ちがときめいた。しかし、時は願書提出締切時期に近づいていた。今から大学に願書を取り寄せても、もう間に合わない。縁がなかったか……無念。と思っていたら、例のF中君が夕食の残りを回収に回ってきた。「どうしたの?なんか沈んでる?」「いや一橋大の願書がほしいんだけど、もう間に合いそうにないんだ。」「えっ?一橋?願書ならオレ持ってるよ。」「は?F中君一橋大受けるつもりだったの?」「いやぜ~んぜん。全国の受験願書集めてたんだよオレ。使う?」「いいの?」「うん、いいよ。」というわけで私は無事に一橋大を受験することができ、何とか入試にも合格出来て、東京での大学生活が始まった。思えば、地元を離れて本当に自由に自分を見つめ直し、自分という存在を一から刷新した大学生活だった。はじめて本当の自分を生きている気がした。そんな私にとって一橋大学は私の第2の揺りかごであり、一橋大の風景は大げさではなく私の原風景なのである。
今、私は一橋大の時計台前のベンチで佇んでいる。不思議なことに私が見ている光景は数十年前に見た景色とほとんど変わらない。当時の私が見たのと同じ若い世代の学生たちが行きかっている。あれから確実に数十年が流れたが、景色は変わらず見ている私だけが変わっている。私が見ている学生の中に、帰国生の皆がいて、その中に当時の私も交じって歩いている。時間は流れるが変わらないものの存在を感じる。
出会い、自由、自己発見…こういうものこそ世代を超えて普遍的な価値があるのだろう。私にこのような宝をもたらしたものは、下宿のメンバー、東京という別世界、そして大学というつまりは「異文化」との遭遇だったのである。
筆者プロフィール 京都大学文学部哲学科卒業。専攻は心理学。臨床も目指したので医学部、教育学部も聴講。得意な語学はドイツ語。現在、日本画家でもあり、木原志保として日展、日春展など多数出品。
代々木ゼミナールで、帰国生の小論文指導を担当している木原志保子です。高校で社会科や国語を教えていましたが、辞めて大手予備校で教えるようになったのは、純粋に「本物の授業」がしたかったから。
私の言う「本物の授業」とは、現代日本で行われている典型的な一斉管理、暗記型の均一な授業でなく、生徒個人の主体的参加による自由思考型の個人の達成度に合わせた授業などです。
みなさんご存知のように、日本の高校では、大学受験を意識して膨大な分野の知識や解法を一方的に教え込むことが一般的です。海外で様々な学校生活や教育を体験した帰国生の多くは、日本の学校の在り方を対象化し、客観視できるはずです。もちろん、この方式によって日本は戦後ベビーブームの大量の子どもたちの学力を一斉に底上げでき、目覚しい復興を支えることができたのですが・・・、しかし「みんなで足並みそろえて」という形は非常に優秀なあるいはユニークな個性や才能をつぶしてしまい、現在の「指示待ち症候群」と呼ばれる国際社会では評価されない「おとなしくて優しいけど何を考えているかわからない」「サラリーマン的な群れ」としての生徒を大量生産することになってしまったのです。
幸い、日本の「帰国生枠」の入試(一般生対象のAO入試などの方式も)は、細かい知識中心のテストではなく、日本語論文や外国語での意見表明、面接などの形で総合的に人物とその思考力やものを見る姿勢を問うような出題がされています。だからこそ、教えがいがあり、「考える力、判断力」や「自分と全く異なる価値観の隣人を受け入れ、理解しようとする姿勢」を探究する授業が目指せるのです。
自分の生きる時代の政治や経済やそれを支える制度や教育などの文化も確固たる「正解」を持たず、グローバリゼーションの中で多様化し、核の利用、軍備と戦争、難民問題、環境問題、自由と平等の並立困難、平和と安全保障など、問題は山積です。消費経済の弱肉強食の中で競争に勝ち残るためには理想を捨てないと無理なのか、あれもこれも取れないジレンマの内にあります。この時代に生きる以上、何らかの選択をせざるを得ません。たとえば、次世代の人々や人間以外の生物を守るためには現在、資源を節約し、合成化学物質の製造などを極端に制限しなければなりませんが、そうすれば反面、国家経済は停滞して国際競争力が激減し将来の国の自立や自由は脅かされざるを得ません。
今までの勉強は多分、自分の満足のため、両親を喜ばすためだったのでは?成績というスケールが明確で努力すればするほどその結果も達成感も得やすかったと思います。正解のはっきりしたものでした。求められていたのは自分の周囲の人々とのコミュニケーション能力です。たとえば、英語、数学やテキスト通りの日本史、語彙や漢字。これは、いままでの日本国内での教育に適応した真面目で優秀な人にとっては得意で楽しいものだったでしょう。
一方、これから帰国生や社会のリーダーたちに求められるのは、現実を鋭く分析し、深く広く思考し、新しい価値観の創造に向かって模索する力とその表現伝達の能力です。たとえば、移民問題は?環境問題は?どういう知性が地球を救うのか、一緒に探っていく姿勢でしょう。そのための討論、入試課題文理解、自分の理解不能な相手とのコミュニケーションであり、それらを通して論理的説得力を養い生命や自然に対する感性を磨いていくことが必要なのではないでしょうか?単純ではないだけに、若い君たちのエネルギーと明るく前向きな姿勢があってこそ取り組め、思考する楽しさも生まれてくるのでしょう。
一緒に楽しんで頑張りましょう!
筆者プロフィール 高校卒業までの19年をアメリカ、香港、シンガポール、中国などで過ごす。代ゼミ帰国コースを経て2010年に東京大学法学部を卒業し大手証券会社に入社。東日本大震災を期に人生を再考。岩手県にて復興支援の活動を2年ほど行った後、国際NGOにて海外の災害支援などに携わる。
「日本について教えてよ!」「日本語話してみてよ!」これらの質問は私が最も嫌いだった質問でした。生まれてから高校卒業までの19年近くを私は海外で過ごしています。通った学校はほとんどが現地校。おまけに母親が台湾人ですので家族の会話は中国語。日本に住んだことがない、日本語が小学生レベル、日本について何も知らない。それでも日本人であり、日本人だとはっきり自覚する私にとって、私の中の「日本」を発見し、それと対面する、それは避けて通れない道だと思いました。そのために単身帰国し、受験することを決めました。私の当時のこの決断は後に人生を前に迷いで右往左往する私にとって、自分を知るという「ルーツ固め」という役割を果たしたと思っています。
大学では法学部に進学。大学入試の面接では環境問題に法的アプローチを行ないたいと言って入学したものの、環境問題の「正解のなさ」に辟易し、早々に目標を見失いました。その後法学部の三分の一の人たちが進む法曹の道や、もう三分の一の人たちが進む官僚の道などを順番に検討し、結局は証券マンだった父の影響もあり、卒業後は証券会社に入社。外国株の機関投資家担当の部署に配属されました。
ところが、入社一年が過ぎようとした時、東日本大震災が起きました。私はテレビで見る被害の様子に衝撃を受けました。この被害と悲しみと困難の大きさの前で、私は手に取れないものを売り買いするこの生業に従事することに疑問を感じました。もっと直接的に誰かの役に立つ仕事がしたい、そう強く思いました。結局紆余曲折を経て、入社一年半で会社を退職。消去法ではなく、きちんと自分のやりたいことを見つけたい、そう思って、全財産を身につけ4ヶ月間の文字通りの自分探しの旅に出ました。
旅行した中で様々な人と生き方に出会い、私の道は法曹、官僚、大手企業以外にもあるかもしれない、ということを知りました。幼いころから勉強ができ、周囲や親に期待され、いつの間にか自分とはそういうものだと、所謂世間でいう「エリート」の道を歩むものだと思い込んでいました。周りや自分の期待に応えなければ、そういう思いや思い込みが、私をがんじがらめにし、私の進む道を狭めていました。私自身が何をやりたいか、何ができるか、何が向いているかとは関係なく、社会や私自身の私に対するイメージが、所謂「エリート」の既定路線以外の広い広い世界が見えないように高い高い壁となっていたのです。
非常に長い迷いの日々を経て、最初に考え直すきっかけとなった東日本大震災の支援に関わりたいと思い、2012年5月にNGOに転職。岩手県大船渡市に移り住み、2年2ヶ月草の根の支援活動に従事しました。友人には「よく続くね。」と言われ、親には「いつちゃんとした仕事につくんだ?」と聞かれ、同じスタート地点にいた大学の同級生が華やかなキャリアを歩むのを横目に、津波で深刻な被害にあい、娯楽施設も文化施設もない、余震で度々避難を余儀なくされる場所で、私は目の前にいる人が笑顔になれるにはどうすればよいか、どうしたら一人ひとりニーズの違う人たち、見知らぬ人たちと向き合えるかを考えていました。なぜ自分は家族や友達と離れ、好き好んでここにいるのかと度々自問しました。正直、非常に不安で、取り返しがつかない選択をしてしまったのでは、と思うことも一度や二度ではありませんでした。そのような苦悩もありましたが、地元の人々の言葉や笑顔に接して私の「天職」はここからそう遠くない場所にあるんだと、確信しました。
高い壁を勇気をもって出たものの、外は広い原っぱでした。それはどこにでも向かえる自由がある一方で、どこに進むべきか正解のない世界です。私と同じような道を進んでいる人もいますが、その理由や、進み方、興味関心、キャリアの積み方がすべて違います。いろんな人の意見を聞くことはできますが、結局どこに向かってどのように歩むのかを決めるのは私しかいません。既定路線でない人生は恐らく既定路線の人生と比べて数倍難しいかも知れません。そして数倍遅いかもしれません。
大船渡での仕事のあと、私は東京に戻り、同じNGOで海外支援の仕事に就きました。防災のプロジェクトの企画をしたり、また偶然仕事で行っていたネパールで地震にあい、ネパールでの支援、災害対応のプロジェクトの企画、立ち上げ、実施などを行いました。今の私は最初に「壁の外」を見た4年前と比べ、自分のやりたいこと、やれること、向かいたい方向を少しはわかってきたと思っています。ただ、当時感じていたような迷いは今でも感じますし、常に戸惑いながら、様々な声や眼差しに惑わされながら、一歩一歩自分の心を裸にしながら、歩んでいます。
正解は恐らくありません。でも、それでよいのかもしれません、多分。私が「正解」だと思えるのであれば。皆さんも自分の正解を探してみてください。
筆者プロフィール 京都大学文学部哲学科卒。専門はドイツ現代哲学。得意分野は語学。特にスペイン語を得意とし、テレビ、ラジオなどでの通訳経験あり。代々木ゼミナールでは、帰国生コースの他、一般生のコースも担当し、毎年多くのテキスト・模試を作成。受験テクニックを一切排した、本物の学力養成を主眼とする教育を、生徒だけでなく、自らの4人の子どもに対しても実践している。
代々木ゼミナールで英語を教えている妹尾真則(せのおまさのり)と申します。どうぞよろしくお願いします。
さて、私の授業のモットーは「勉強は遊びだ!」です。遊びと言っても、ふざけていいかげんにやろうということではありません。「好きこそ物の上手なれ」と言われるように、勉強それ自体を楽しんでやろう、その時に学力は一番向上するのだから、ということです。
勉強を遊びとして楽しむことが学力をつけるための一番大事な真実だということに、私は若い頃に気づきました。そこで自分の子どもが学校に通いだしたら、勉強が大好きな充実した人生を歩んでもらいたいと思い、そのように育てることを決心したのです。
その結果、わが家の子どもたちはみんな、勉強が大好きです。
私は代々木ゼミナールでも、生徒たちにまったく同じように接しています。生徒たちに勉強を強制するのではなく、また、おどしや褒美(ほうび)を原動力とするのでもなく、勉強それ自体が大好きになるように仕向けることによって、生徒たちの中に秘められた無限の可能性を引き出すのです。
長男が中学校に入学する時に、私はあることを話しました。
それは、日本の普通の中高生みたいに暗くなるなということです。私がいつも教えている帰国生のように、明るく怖いものなしの気持ちで生きろ、と。
さて、なぜ、日本の中高生は暗いのでしょう?正確に言うと、日本の大学生は明るく元気なのに、日本の普通の中高生は帰国生に比べて、確かに暗いのです。なぜでしょう?それは抑圧されているからです。西洋合理主義の論理で運営されている大学に通う大学生とは違って、中学生や高校生は、本当の勉強とは違う、詰め込み式の不必要な重荷を押し付けられて、「勉強」しなければ社会から落ちこぼれるぞ、という暗黙のメッセージをさまざまな方面から始終浴びせられており、友達とのおしゃべりやゲームに逃げているのです。
勉強面だけではありません。上から押し付けられた理不尽な社会規範にがんじがらめにされており、自らの本心を口にする機会すら与えてもらえず、「~したい」ではなく、「~しなければならない」が行動基準になっているかのようです。
日本の学校では、民主主義的な価値観が重視され、個人の力を伸ばそうという取り組みがなされているように表面上は見えます。そして現にその観点から日頃の教育活動を行っている先生方もいらっしゃいますが、そのような先生方はわずかです。日本が戦後、国際社会の中で生き残っていくために西洋合理主義に基づく民主主義思想を受け入れたのは事実ですが、それは本来的な意味ではまったく根付いていません。
日本はいつまでたっても個人の意思を尊重しない、弱者を抑圧する集団主義の社会のままです。そこでは、自分の力を押し殺してでも和を大切にすることが強調されます。
それと同じことですが、日本では民主主義とは到底相容れない、権威主義がいまだにまかり通っています。民主主義の価値観では、たとえ、親や先生や政府の言うことでも、おかしいと思ったら、論理的に反論し説明を求める権利が誰にでも与えられてしかるべきです。しかし日本では、口答えはよしとされず、論理的かつ正当な反論が屁理屈として拒絶されます。そして消極的な遠慮や謙虚が跋扈ばっこし、それが、ねたみやそねみにつながり、いじめにもつながる社会状況の中でそのひずみは弱者である子どものもとに集中します。
そのような社会のほどこす教育が、心も体も活発な十代の伸びようとするエネルギーを押し殺し、押し黙らせてしまうのは想像に難くありません。(戦後の歩みについては、政治も教育も、ファシズムを自己批判し、内からの改革に成功したドイツの例が日本のよいお手本になると思うのですが、ここでそれに触れる余裕はありません。
帰国生の諸君は十代の大切な時期を、そのような個人の力を押さえつける状況から離れて暮らし、自分の力を全面的に表に出す機会を与えられ、普通の日本の中高生にはない明るさを身につけています。
もちろん、日本と海外とを対比するこのような2元論がステレオタイプであることはわかっています。海外にもさまざまな国がありますし、ねたみそねみやいじめが問題となっている社会もあります。しかし、それが有意な差を生み出しているのも、帰国生に接したことのある人なら誰にでもわかる事実なのです。
帰国生の諸君には日本のこのような閉塞状況を打ち破る起爆剤として存分に力を発揮してもらいたいと思います。古代以来、文化の衝突が新たな未来を創造してきました。そのような創造へとつながる文化の衝突の担い手としての役割、それが大学が諸君に求めている資質の中心です。
そう、私の大好きな帰国生諸君は、一人ひとりの人間が自らの内なる力を発揮して充実した人生を全うすることのできる、平和な日本の未来へとつながる希望の星なのです。
筆者プロフィール 高校卒業まで計13 年半を米国とメキシコで過ごし2003年に帰国。代ゼミ帰国コースを経て、東京大学教養学部、同大学院修士課程修了。現在、同大学院博士課程学生と社会人の二足の草わらじ鞋を履きながら、文化財保全の可能性を模索中。
私の人生はメキシコに引っ越した7歳の時に大きく変わりました。メキシコ人の心の拠り所の一つに1500年以上も前に建造されたテオティワカン遺跡があります。今も政府が中心となって保護をしている巨大な太陽のピラミッドを目の前にし、「死者の道」に立った瞬間、私は過去の文明の偉大さと芸術的な建造物の美しさに衝撃と感銘を受けました。また、当時通っていた学校の近所には草木に覆われ小高い丘と化したピラミッドがありました。このように埋もれたままで放置されている遺跡と国を挙げて守られるものとの差異について考えるようになり、それ以来、長期的かつ持続的に文化財を保全する仕事をしたいと思い続けています。私の場合、日本の大学に進学したことで、すごくゆっくりではありますが、確実にその夢が現実に近づきつつあります。悩み続けて現在に至りますが、その判断に間違いはなかったと心から言えます。
10歳から高校を卒業するまでアメリカで過ごした私は、「日本人」というアイデンティティを見失いつつありました。突如帰国することが決まったことも相まって、私は日本の大学に進学することを決断しました。
帰国受験は、将来の生き方を真剣に考え、自身と向き合う良い機会となります。それまでの人生を再び見直し、自分の長所・短所を考え抜き、これからどういうキャリアを積みたいのか、その為にはどの大学のどの学部に進学し、どんな先生に師事したいのかを考えるチャンスです。これは非常に難しいことですが、若いうちにこのプロセスを経ることは人生設計の近道となるでしょう。
さて、私は文化財保全の夢を実現するため、考古学科のある文学部、国際的な制度作りについて学べる国際関係論、また文化財という資源を資金面で保全するための仕組みを考えられる経済学の3つにフォーカスをあてました。帰国生入試の特徴は、なぜその大学、学部に行きたいのかを、いかに試験官を説得できるかにかかっていると言えましょう。したがって自分で納得できなければ、大学側を説得することも難しいのが、一般入試と大きく違うところです。私はそういう意味で、強いパッションを持って受験に臨めたことがプラスになったと感じています。
私が進学した東京大学は、最初の2年間が教養課程なので、専修分野は2年生の冬学期まで決まっていません。そこで、1年目は興味のある授業をたくさん取り、どの学科に進学すべきか模索することにしました。大学で受けた講義には、年輪を数えて木の年代測定をするゼミや、ラテンアメリカ文学に関する講義、開発経済学の授業や能・狂言について観世流の家元に基本的な謡(うたい)を教えていただくものなど多様なものがありました。その中で考古学と国際関係の2つに絞り、各先生方にアドバイスを仰いだ結果、途上国の文化財保全をテーマとして扱うために教養学部国際関係論への進学を決め、現在の博士課程への研究にいたっています。大学では友人や教授を通して、進路や人生設計に影響を与えてくださった多くの方々と巡り合うことができ、そのつど様々な方のアドバイスを受けながら道を切り拓くことができました。
私の人生の転機は修士1年目でインターンを行ったパリのユネスコ本部オフィスでの2か月でしょう。国際機関でできることの可能性と限界を学びながら、世界を体感しました。また修士修了後は外資系経営戦略コンサルタントとしてプロジェクトマネジメントについて学び、同時に博士課程へ進学することを決意しました。2012年に文化財保全の手法を学ぶため英国の考古学科の大学院に留学しながら、ヨークミンスターというゴシック建築の大聖堂修復に保全家の見習いとしても携わりました。英国大学院卒業後はローマにある文化財保全の国際機関と日本の国立の文化財保全研究所で働く機会を得ました。現在はより広く文化を捉え直し、文化外交の可能性を模索するため、国際交流基金で働いていますが、文化財保全の道に進むことを諦めていません。
まだdream job についていませんが、少しずつ夢に近づいていることは確かで、そのもどかしさにヤキモキしながらもワクワクしている日々です。5年後、10年後、自分がどのように生きているのか見当もつかない今の生活は少し落ち着きませんが、充実したものであることは確かです。私の選択を応援してきてくださった方々に恩返しをするためにも、皆様の力で切り拓くことのできたこの人生をより満足のできるものにしていかなければなりません。帰国生として海外で生活してきたころから常に挑戦し続けてきたこのライフスタイルは今後も変わらないと思います。世界と戦う基盤を作ってくれた海外生活と、その機会を与えてくれた両親、そしてサポートしてくださる多くの方々の期待にこたえられるように、これからも奮闘し続けます。
大学入学・卒業から新たに始まる人生というマラソンをいかに充実したものにするか、真剣に悩みながら受験に取り組んでください。頑張り続ける分、満足のできる素敵な生き方と巡り合えます。
筆者プロフィール 大学卒業後建設会社に就職。1年半で退職し青年海外協力隊に参加。以降、北米、アフリカ、アジア諸国に家族と赴任。農業農村開発分野の技術協力事業に従事。
フィリピン、インドネシアそしてカンボジアで10年余り勤務した後、昨年からエチオピアに赴任し、アジアとは異次元の距離をアフリカに感じている。
エチオピアの人はバス停で列をなして待つが、割り込みを防ぐべく行列する人と人はかなり密着している。行列をなすことはアフリカでは珍しく賞賛されているが、日本の満員電車はともかく私は他人と接触しながらバスを待つことはできない。握手をしながら肩と肩を付けるエチオピア式の挨拶は私にとっては異質で、頬と頬を触れ合う女性に対する挨拶の際は、戸惑いと恥ずかしさを克己し、清水寺の舞台から飛び降りるほどの度胸が要る。「洋画の世界だ。大げさな。」と思うが、彼らの文化である。
日本の政治家が諸外国の要人と面会する際に、堂々と握手をしている姿に安心する。何処かの政治家の様に飲んだくれ記者会見ではなく、背筋を伸ばして挨拶する様は、これから困難な交渉に向かう覇気を醸し出す。英国の女王陛下との謁見に際し、主人公が過剰のお辞儀で陛下を転倒させてThe EndとなるMr. Bean主演のコメディー映画がある。映画なので笑えるが、江戸時代であれば打ち首、現代のアフリカでは国外退去であろうか。
国や地域によって挨拶を始めとした文化や習慣が異なり、更に人によって居心地良く或いは不快に感じる距離がある。握手の距離でお辞儀をすればMr. Beanの二の舞であり、反対にお辞儀の距離ではお互いの手は届かない。お辞儀をしながら握手をしようとする距離は中途半端で、見るからにぎこちなく、何より相手との視線を外す。「勇気を持ってもう一歩前へ進んで握手を。」というのが、外国の大学で教鞭を執られた経験をお持ちの威風堂々とした恩師の話であった。一歩前に出てお辞儀の距離を自らなくすことで、握手をしながら相手を正面に見る。なるほどと思う。翻って私の場合は、お辞儀で始まり、外国人が手を差し出しているのを見て、一歩近寄って握手となるケースが多い様に思う。スムーズにできる時もあるが、悶々とはいかぬまでも実は苦慮している。握手とお辞儀の距離を測りながら挨拶する自分が見えるからである。女性が相手の際には、私から手を差し出すべきか、頬と頬を触れるのか、悩む。幾多の外国人と接してきたが、正直な気持ちだ。
経緯は異なるにせよ、インターナショナル校や現地校でそれぞれ学び、(日本から見た)海外で生活してきた諸君である。海外で生活することは、文化習慣や挨拶を含め、人と人との距離観を会得することでもある。会得しなければ生活できないと言っても過言ではなかろう。先の行列するエチオピア人や挨拶、手をつないで歩く男性同士など、海外では威圧感(時には滑稽感?)を覚えることがある。日本社会では人の付き合いが希薄になり、唖然とする事件が起きているという報道を聞く。モニターに現れる映像とスピーカーからの音声に対して、キーボードとマウスのボタンでやり直しを前提とした疑似世界に嵌る若者が多くなったとも聞く。しかし諸君は、肌に感じる空気や大自然の温みや地域社会の匂いを、疾走する時間の中で隣人知人友人と共有してきた。時に奇妙な感覚と戸惑いそして共感に満ちた時空間の中で、多様な文化を背景とする人たちとの距離を実体験し、距離観を育んできた。口論になることもあったかもしれないが、それは国民一般ではなく一個人としての性格に起因していることを諸君は理解していよう。
肉体的精神的な柔軟さと強い理解吸収性を誇る諸君が多種多様な文化や習慣に触れ、新たな化学反応を起こしながらも習得し適用し更に応用してしまう。そういった諸君の感性や能力やスピードと、只一種類の距離感のまま30年近くを過ごした後海外に馳せた私のそれとはそもそも違い、その違いたるや、大きい。丁度、数少ない引き出しに何を入れたのかも忘れ、開けようとしても歪みで開けられない現実に悶々とする私に対し、快活にスムーズにそして思い通りに機能する無数の引き出しを持っている諸君である。
引き出しは財産である。多ければ多い程良い。使うほど価値も増す。諸君が培ってきた距離観は、如何に増やし活用するかその挑戦へのパスポートであり無二の資産である。大きな飛躍を願う。
筆者プロフィール 高校時代にアメリカへ3年間留学。代ゼミ帰国大学受験コースを経て、東京大学法学部、同法科大学院卒業。大学在学中は、フェローとして帰国生の後輩を指導、テニス部のキャプテン。現在は、弁護士として、日々奮闘中。
弁護士2年目。子どもが大人になるまでに20年かかるように、どうやら、弁護士も一人前になるには同じ位の年月がかかるようです。長い経験を積むうちに、「金色」の「弁護士バッジ」も表面が削られ、「いぶし銀」になります。しかし、「金色」でも依頼者の人生を背負うという「バッジ」の重みは同じです。毎日、依頼者の方々と一緒に悩みながら、全力で駆け回っています。
私が受け持っている裁判の一つに、当時19歳の大学生が119番通報をしたけれども救急車が来ず、亡くなってしまった「山形救急車訴訟」があります。生きものが好きで、夢に向かって真面目な大学生活を送っていた青年。最後の助けを求め、話すのもやっとの苦しそうな声が、119番通報の録音テープに残されていました。もう何十回と聞いていますが、その度に突然消えてしまった未来の重さをひしひしと感じます。「もう二度と同じような事件が起きてほしくない」、ご遺族と心を重ねて裁判に臨んでいます。
また一つに、耳の不自由なお母さんが、市から手話通訳の派遣を断られてしまった「高松手話通訳訴訟」があります。これは、聴覚に障がいのある人が情報を取得する権利、すなわち「聞く・知る権利」のための重要な裁判です。聴覚に障がいのある弁護士を中心に、全国の「いぶし銀」から「若手」まで、40名程の弁護士で弁護団を組んで活動しています。「手話」は、原告・ろう者の方々の大切な言語です。私は原告・ろう者の方々と、拙くても、直接「自分の言葉」で話したいと思い、「手話」を始めました。
障がいの分野の本質は、与えられる「福祉」、「思いやり」、「やさしさ」ではなく、人間が生まれながら当然に持っている「権利」です。そして、「権利」を守るためには「法律」が必要です。昨年は、聴覚障がい関係団体からアメリカに派遣され、司法省(DOJ)などを視察し、障害者差別解消法、情報アクセス・コミュニケーション法、手話言語法を制定するための調査を行いました。視察団のメンバーは、「この道何十年以上」の聴覚障がい当事者関係、手話通訳・要約筆記関係の方々と私です。視察では、日本とアメリカの「先人」が、「熱意とやりがい」を持って共に取り組む姿を見て、私も後に続けるようになりたいと思いました。現在、立法に向けて政府に提出する報告書・提言をまとめています。
ところで、私のボスの「いぶし銀」弁護士は、書面をあっという間に書き上げてしまいますが、私はそうはいきません。締め切りが迫っている時は、深夜にカップラーメンをすすりながら事務所のパソコンに向かうことも…。調子が乗っている時は、徹夜で夜が明けるまで続けますが、眠くなり煮詰った時は待合室のソファーで寝てしまい(ちゃんと毛布もあります)、朝、目が覚めてから、また始めます。ひんやりとしたソファーに横たわり目を閉じると、学生の頃を思い出し少し頭が冴えてきます。
私は、日本の大学に進学することを決めて帰国し、弁護士を目指そうと思い法学部に入学しました。しかし、司法試験の勉強を始めるまでには時間がかかりました。あちこちに頭をぶつけながら、たくさん悩み、たくさん本を読み、たくさんの人に会いました。
また、弁護士として、障がいの分野に進むか、全く別の分野に進むかについても、さんざん迷いました。そこで、思い余った私は、障がいの分野で大きく活躍されている、ある先生の連絡先を調べて、ご相談のメールをお送りしました。この1通のメールが現在につながるきっかけでした。
私は弁護士になって、逆に、依頼者の方々から「人生」について教わり、育てていただいているような気がします。何よりも大事なのは、「『自分の人生』を真剣に考え、大切にすること」。このことは私も依頼者の方々も、障がいの有無も関係なく同じことだと思います。
今は目の前の仕事を全力でやるのみです。朝起きたら昨夜からの続きの書面を完成させて、「OK」をもらい、裁判所に出し、そして次に締め切りが近い書面の準備。同期との飲み会もなかなか行けない忙しい毎日です。しかし時々は立ち止まり、「私は、『自分の人生』を真剣に考えている?大切にしている?」と初心を思い返すようにしています。一緒に大いに悩み、そして、前進しましょう!
筆者プロフィール 帰国クラスの「現代文」と「小論文」を担当しています。今回は、帰国生自身が気付いていない彼・彼女らの重要な「特性」について書いてみました。
実は私にはちょっとした「特技」がある。両手を自在に扱えるのだ。いわゆる「両利き」である。文字を書くのも、絵を描くのも“両手がイーブン(even)”である。実際、教室の板書では、両手を交互に使い分けている。たまに授業の「息抜き」に両手で同時に書いて(といっても左右同じ内容しか書けないが)、ちょっとした“パフォーマンス”を見せたりもしている。そして、私自身成人するころまで気付かなかったのだが、この「両利き」の人間には、ちょっとした特徴があるようなのである。ひとことで言うと“二重人格”である。といっても精神が二重に分裂しているのではない。右手と左手の人格が異なっているのである。意味がお分かりだろうか?(ちなみに私と同じ「両利き」の生徒に聞いても同じことを言っている。)私の場合は、右手は「堅物(かたぶつ)」の人格で、着実だが柔軟性に乏しく、いってみると面白味のない性格である。これに対して「左手」はユニークなやつで、右手とは“真逆”の性格である。着実性はないが、のびのびしていて自由であり、発想が奔放である。私の発想はいつもこの右手と左手の瞬間的な対話から生まれてくる。そのせいか発想に困ることはあまりない。学生の頃友人に「右手と左手って、人格が違うだろう?」と何気なく話したところ「何言ってんの?」と怪訝(けげん)な顔をされて、ようやくこの特徴がちょっと変わった「両利き」の人間だけのものだと気付いた次第である。
ところで、大体において、帰国クラスの授業は、本科生のクラス(国内生のクラス)と比べて盛り上がる。授業内容も予想外の展開を見せ、思いがけない成果が得られることが多い。授業テキストの本文に「通訳」のことが述べられていた時のことである。「皆は通訳はお手のものだけれど、“同時通訳”のできる人はいる?」と問いかけたところ、幾人もの生徒の手が挙った。そこで私の授業をその場で同時に通訳してもらうことにした。驚いたことに、中国語、スペイン語、フランス語etc と、彼・彼女らのそれぞれの滞在国の言語で、ものの見事に授業の同時通訳をやって見せてくれたのである。教室内は拍手と歓声の渦である。そこで、クラス全員に、そもそもどうやって「通訳」を行なっているのかを聞いてみると、まず相手が話す内容が一つの塊(かたまり)となって頭の中に浮かび、次いでその塊を瞬時に滞在国の言葉に置き換えるのだという。ここで思った。これは私の右手と左手の会話と同じであると。(ふぅ~ん、ならば私も“二か国語”同時通訳の使い手なのか……。)
最近、Y-SAPIX※の「リベラル読解」という講座(一冊の本を通読して、ディスカッションを行うもの)で、水村美苗氏の「日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で」(筑摩書房)を扱ったのだが、その内容がよみがえってきた。そこで水村氏が説いていたのは、自国言語(国語)及び自国文化の成立にとって、「二重言語者」が決定的な役割を演じていたということである。水村氏は、二重言語者が異文化の他言語を自国に導入することで、自国語と自国文化が成立したのだという。つまり二重言語者は、言語及び文化形成・定立の源(みなもと)(原動力)であり、二重言語者こそ言語及び文化の本来的な担い手だというのである。
帰国生の彼・彼女らは、程度の差こそあれ、間違いなく「二重言語者」である。加えて、彼・彼女らは生き生きと異質な言語と文化を変換できる「二重言語者」である。言い換えれば、彼・彼女らは本来的な言語・文化の定立・制定者であり、文化を動態的に発展させることのできる極めて貴重な存在なのである。にもかかわらず、彼・彼女たちは自らこの特質に気付いていないのだ。あたかも「両利き」だった私の“二重人格”があまりに当然であったために長く気付かないままであったのと同じように。
多くの帰国生は自分の個性を日本国内でどのようにアピールしたらよいか、そのアピール・ポイントを見いだせないで悩んでいる。私には、見ていて歯がゆくてしょうがないのである。そう、今そのままの君たち自身の存在が、文化を定立し発展させる原動力=エンジンなのだよ。早く気づきたまえ!その上でしっかり勉強し研鑽(けんさん)を積んで明日の日本、いや人類社会を支える存在に育っていくのだ。日本と世界の将来は君たちの肩にかかっている!!
※Y-SAPIX:サピックス・代ゼミグループが全国に展開している、東大・京大・医学部・難関大現役合格塾筆者プロフィール 外国語教育センター副センター長などを務める中、国際バカロレア資格者受け入れを提案し制度化。専門は植物遺伝学で修士・博士号は米国で取得。
「元気な日本復活」をめざす政府の新成長戦略の重要な柱として、グローバル人材育成推進のための提言がなされました(「グローバル人材育成推進会議中間まとめ」2011年6月22日)。21世紀の世界は、経済・産業のみならず、人口・環境・エネルギーなどの課題も、国境を越えたグローバルな対応が不可欠であり、その中核を支える人材の育成に政府、教育関係者、企業、保護者が連動して対応すべきであるとしています。
私が所属する岡山大学も、中国四国地域の中核総合大学として、グローバル人材の育成に繋がる大学改革に地道に取り組んできました。
国際バカロレア資格者について、2011年4月入学から積極的に受け入れる制度を導入しました。これは、国立大学としては初めてで、公私立大学でも、一部の大学の国際関係学部で実施されているだけでした。国際バカロレア資格については、大学受験資格の一つとして、その名前は大学関係者には以前から広く知られています。しかし、国際バカロレアの教育目標はグローバル人材育成が理想とするものとよく一致すること、成績の評価が国際的に標準化されていて年度や学校間で格差がなく、欧米の大学は最終成績を基本に学生に入学許可を与えていることなどは、ほとんど知られていません。このため、学内プロジェクトとして、国際バカロレア機構やバカロレア校から講師を招いて講演会を開催して学内の啓発を進めるとともに、入試や学部の教務担当教員をバカロレア校に調査派遣するなどの準備を重ねました。制度導入決定後は、国際バカロレア資格者の受け入れに積極的な海外の大学における招聘策、入学後の教育プログラムなどを調査しています。このような検討を踏まえて、受験者の合格発表は8月末日とし、10月から入学前の3月までは、合格者が補習的な講義を聴講できるなどの対応を始めています。
正規の英語授業の他に、気楽に英語会話のレッスンを受け、留学生との交流などを通して異文化との交流を進める「イングリッシュ・カフェ」を設置しています。このカフェの運営は、教養教育担当のセンターに所属する英語系の教員が専任で運営にあたっており、同センターの英語ネイティブ教員のオフィス・アワー開催など、正規の英語教育との連携を図っています。また、奨学金支給や単位互換が可能な協定大学に留学する学生の英語トレーニングや留学生との交流、さらに、帰国後の英語力の維持や後輩学生へのアドバイスの場としても使っています。これらに加えて、就職支援などを行うキャリア開発センターとも連携し、キャリア・プランニング上、留学経験が重要と見られる学生には、留年となる可能性が少ない2年次生での留学を勧め、それが実現するようにカフェが協力しています。カフェやキャリアセンターなどの組織や留学制度は、個別にはどの大学にも整備されているでしょう。本学は、学内の連携を進め、意欲的な学生が留学などの機会を十分に活用できるよう運営に配慮しています。
グローバル人材育成については、最近、文部科学省、経済産業省主催の会議、経団連などからも多くの提言がなされています。これらの提言が理想とする人物像の要素は、上記「中間まとめ」の中の、1)語学力やコミュニケーション能力、2)主体性・積極性、チャレンジ精神、協調性・柔軟性、責任感、3)異文化に対する理解と日本人としてのアイデンティティーに集約されます。このような要素を兼ね備えた人物像は、国際バカロレア教育がめざしてきたものであり、また、インターナショナルスクールでも、このような教育目標を理解した教育がなされていると思います。このため、「中間まとめ」には、政府が取り組むべき方針として、国際バカロレア教育機関の設置(200校)、資格者への対応を進めることに加えて、在外経験を有する者の積極的な受け入れ策などが提言されています。国際バカロレア学校やインターナショナルスクールなどで学ぶ皆さんは、これからのグローバルな日本社会を支える中核的な人材として、正に期待されています。また、日本の大学の取り組みも少しずつ加速されていくと思います。このような機会を積極的に利用して、高校までの在外経験を活かして、グローバルに活躍できる人材になっていただきたいと願っています。
筆者プロフィール 代々木ゼミナール国際教育センターにて、帰国生の受験指導に長年携わる。小論文の個別指導も担当。私立高校の講師もしつつ、野球・写真・音楽・美術・旅に興味津々の日々。
2011年3月11日。日本人にとって、忘れることのできない日。この日を境に、世界が変わってしまったと言えるほどの衝撃的な一日。世界のどこかでこのエッセイを読んでくださっている皆さんもまた、ニュース映像や出版物を通じて、変わり果てた東北の地の惨状を目にし、これが現実でないことを願ったのではないでしょうか。
3月11日午後2時、私は東京の中心、皇居のお濠に面した9階建ビルの最上階にある「出光美術館」にいました。代ゼミの生徒たち5人を引率していたのです。前日は一橋大学の合格発表、数日後に東大の受験を控えた時期でしたが、ぜひ彼らに見てほしかった美術展が開かれていたからです。
帰国生は「文化とは何か」ということに強い関心を抱いています。彼らは異国で暮らして、はじめて日本の文化の良さや素晴らしさを再認識するのだといいます。また現地の友達に聞かれて、はじめて自分が日本の文化について意外と知らないことに気付いたという話も聞きます。日本文化の中で当たり前に暮らしてきた自分に、日本文化とは何か改めて考える機会が生まれる。帰国生にとって、海外生活はそのような大きな意味を持っているようです。
実際、帰国生入試の小論文の課題も「文化とは何か」といったテーマが出題されることが多いのです。ならば、本物の美術を通して「文化の本質」を知ってほしい。そんな機会を作るのも、私の役目だと思っています。
今回の展覧会は、桃山時代末期から江戸時代に花開いた「琳派(りんぱ)」芸術の作品を、系統立てて紹介するものでした。俵屋宗達(たわらやそうたつ)の「風神雷神図屏風(ふうじんらいじんずびょうぶ)」などは、どこかで目にされた方もいると思います。日本画の展覧会は、高校生にとって馴染みの薄いものかもしれませんが、彼らの感性が何を捉えてくれるのか、とても楽しみにしていました。
会場の途中にある酒井抱一(さかいほういつ)の「紅白梅図屏風(こうはくばいずびょうぶ)」の前にさしかかった時、生徒たちは立ち止まり感嘆の声をあげたのです。「これはすごいですね」「金屏風では出せない梅の美しさがある」と。
「屏風絵」というのは、日本の美術のひとつの特徴です。通常は尾形光琳(おがたこうりん)の金屏風のように、金箔を下地にして描かれるものですが、この屏風は夜の空気を思わせる銀の下地に、凛として清楚な趣をたたえた梅が佇(たたず)んでいるのです。受け継がれてきた日本画の作法を打ち破って、抱一は、自分の感性が選んだ「銀」の空間に、薄明(はくめい)に咲く花の命を描き出したのです。
私は、この屏風をどうしても見てもらいたかったので、彼らが一番にこの屏風を気に入ってくれたことに胸が熱くなりました。「説明する」とか「教える」といったことではなく、彼らは確かに「日本の美」「日本の文化」を自ら感じ取ったに違いないと思いました。
まさしくその直後、会場の床がぐらりと傾き、それからは大海に漂う小船のように、展覧会場が揺れ続けました。このままこのフロアがすっぽりと抜けて、空中に放り出され、死んでしまうのかなと思いました。交通機関がストップし、避難した先で、5人の生徒と一晩中語り明かしました。
歴史に刻まれるであろう大災害の日に、この「琳派の芸術」を生徒と共に鑑賞したことは、ある意味運命だったのだと思います。
琳派の芸術の多くは「自然」を描いたものです。タンポポ、レンゲ、百合、桔梗、菊といった四季の花々と小さな動物が描かれています。それはこの世に生を受け、確かに息づく生き物たちです。しかし、自然は移ろいやすく、はかない。春夏秋冬、時が流れていく、その流れの中に命がある。生き物はみな、自然の懐に抱かれてこそ生きられる。
いにしえの日本人は、そのことを知っていた、というより感じていたと言えるのではないでしょうか。だからこそ、愛おしささえ感じられるほど丁寧に、命の姿を屏風絵や陶磁器に写しとどめたのだと思います。
「自然に生かされている」
このことを大切に思うということが、日本の文化の核にあるのではないでしょうか。
大震災で壊滅的な被害を受けた東北の映像を見るにつけ、自然の脅威の前に人間はなす術もないのだと、無力感にとらわれます。しかし、日本人が「自然に生かされている」ことを忘れなければ、やがて自然は芽吹き、私たちに恵みを与えてくれ、この国は再生できる。そう思うのです。
筆者プロフィール 1973年、外務省入省。ロンドン、クウェート、パリ、バンコク、ワシントン、ヒューストン、ニューヨークの大使館などに在勤。2007年から、経済協力開発機構(OECD)事務次長。
過去20年くらいの期間を振り返ったとき、私たちの周りで起きていることの最大の特徴を一言で言うと、それは「グローバリゼーション」ではないでしょうか。そうしてこの先何十年かの間にわたって、この流れは続いていくものと思われます。
一般に「グローバリゼーション」、「経済のグローバル化」とは、国と国の間の国境の壁が低くなり、モノ、ヒト、カネ、そして「情報」が国境を越えて、自由、大量、かつ急速に移動する現象を指します。その背景には、80年代末に起こったソ連の消滅と冷戦構造の崩壊、EU統合の深化のような政治的な要素もありますし、また、パソコン・インターネットの急速な普及、航空機の発達による大量輸送というようなインフラの発展も重要です。
また、ここで見落としてはいけないのが、グローバリゼーションの進行に伴って、それまで国毎に異なっていた多くの規則や基準の統一化や相互の受け入れが進んだことで、こうしたソフト面で制度改革がグローバリゼーションを大きく前進させたという点です。
ところで大変幸いなことに、皆さんのように「帰国子女(※)」といわれる人は、そういう時代を生きていく上で、「語学力」と「国際感覚」という極めて重要な2つの点で大きな優位を持っていると思われます。
まず語学力ですが、いまや英語ができるのは当然、少なくとも英語以外に一ヶ国語を話せた方がよい時代になりつつあります。ですから、皆さんが英語圏で学ばれたのであれば、学校の外国語の授業で学んだフランス語やスペイン語が役立つでしょうし、英語以外の言語の学校であったならば、この先英語を集中的に勉強してください。
帰国子女の人と日本でよく英語を学んだ人の英語を比べると、面白いことに気がつきます。友達と連れ立ってコンサートに行ったとしましょう。通路に近いところには何人かの人が先に座っていて、中のほうの席に入るにはこの人たちに立ってもらう必要があります。皆さんは、自然に「Excuse us, please.」と言いますよね。随分良い成績の人でも日本で英語を習った人は、とっさにこれが出ず「Excuse ME.」になってしまいます。
これは英語というより英語的発想、思考にかかわることかもしれません。たとえ日本語で話していたとしても、長く英語圏に暮らしていると、「お腹、空いてない?」と聞かれた時、首を横に振りながら「ううん、空いてない」と反応しがちです。また、「兄弟は何人」と聞かれた時に、自分の分を一人引いて答えたりしませんか。ですが、そういう風に「英語で考える」ことこそ、英語でのコミュニケーションにおいて重要なのではないでしょうか。
皆さんの中に、自分は国際感覚がある、と思っている人は殆んどいないのではないでしょうか。即ち、帰国子女の人は国際感覚があるなどと言われても、自分のどこにそんなものがあるか、ピンとこないと思います。私の思う国際感覚というのは、「世の中には色々な文化や慣習があって、それらはどれが優れているとかいうのでなく、それぞれが合理性と存在理由を持っている。生まれ育った国が違えば価値観も異なって当然で、大切なことはお互いの価値観を尊重し合うことだ」というような考え方ができることです。ただし、「互いの価値観を尊重する」ということは、「だから、人と議論しない」ということには全くなりません。私は最近の若い人が他の人との対立を必要以上に避けたがるが故に、自分の意見を表明するのを控えたり、極めて曖昧な表現を多用することは、感心できません。何が正しくて何が正しくないかを判断すること、自分の考えを持ち、それを論理的に他人に説明できることは非常に大切なことで、これもまた、帰国子女の人は自然と身についていることかもしれません。
皆さんの中には、これから大学受験という人が多いと思いますが、その先には就職が控えています。就活というのは今や、大学受験以上に大変な競争状態のようですが、そうなると皆さんの持つ帰国子女としての優位が俄然生きてきます。他方、強みは弱みでもあるので、帰国子女の人が心がけたらよいのではと思うことをお話します。
語学については、言葉は所詮「入れ物」であって大切なのは中身ですから、内容のある話をきちんと順序立てて話す能力を身につけること。皆さんは、同年代の友達とおしゃべりするようにと言われたら、1時間でも2時間でも苦労なくできるでしょう。そうでなく、何かのテーマについて大勢の前で発表するような経験が役に立ちます。その為には、中身の勉強が欠かせません。大学では是非、日頃から時事問題を追いかけ、専門分野以外にも広く世の中の問題に関心を持つよう心がけ、それらに関して自分の考えを持つようにし、更にゼミなどの機会を通じて自分の意見を上手に表現できる能力を培ってください。
また、国際感覚があるが故に、日本人としての常識に欠けるようなことのないように心がけてください。皆さんが3年間外国で暮らしたとしたら、その3年間日本にいなかったということで、その年齢のときに日本にいれば経験したであろうことを経験していないわけです。ですから、その分は意識的に取り戻す努力が必要で、日本文学に親しんだり、日本国内を旅行したり、日本的な習い事や武道など何か一つでもいいですからやってみて、それらを通じて日本理解の一助となるようなことに挑戦してみるとよいと思います。
※「帰国子女とは」 ここから先のお話の中で「帰国子女」という時、私は、「初等・中等教育期間のうち1年以上の期間を家族とともに外国で過ごし、現地校ないしインターナショナルスクールで主に英語で教育を受けた人」を念頭においています。最近は、外国で高校を卒業し、そのまま外国の大学に進む「帰国しない子女」も少なくないようですが、そういう人も含めて「帰国子女」と呼んでいます。私は、あれこれ考えるのが好きだ。どうでも良いこと、日々の生活には直接関係ないと思われることを考えるのが好きらしい。よく家で話もする。
家の中では、専ら家内が聞き役になってくれている。「またはじまった。」家内はそんな表情を一瞬浮べるが、つきあってくれている。そんな、あれこれ考えた話の1つ。 家に思春期の息子がいる。ちょっと反抗期らしい。あまりなれなれしく話しかけてもらいたくないようだ。「今日学校で何があった?」「ふつう。」ボソッと答える。「いつもと変わったことはない?」「べつに…。」「特に…。」少し前に話題になった女優さんのような答え方をする。家内と「やっぱり反抗期だねぇ。」なんて話に落ち着く。そうして、私の“どうでも良いこと回路”が始動する。「…で、反抗期って何だ?」
こんなとき、いつも私の考える方向は決まっている。キーワードは、「そもそも」だ。とりあえず原点に戻って考えようとするわけだ。延々とあきもせず「原点」を求めて考え続ける。「(自問)そもそも何ゆえ人は反抗期を迎えるのか?」「(自答)それは、親からの自立を図るためだ。」続けて聞く、「(自問)では、なぜ反抗することが自立を図ることになるのか?」「(自答)それは、周囲から離れて、1人静かに自分を観察できるからだ。その結果、自分としての基準ができるのだ。そしてそれが、大人になるということだ。」「(自問)ならば、大人になったらなぜ反抗しないのか?」「(自答)それはもはや自立していて、自分の基準を改めて問い直す必要がないからだ。」「(自問)では、大人は、自分を問い直し、反省する必要はないのか?」あれ?おかしい?「大人が反省する必要がないだと??ありえないではないか!!大人の反省と思春期の子どもの反省って、違うのか?…」、こんな具合だ。
たどり着いた結論をまとめてみる。こんな風になった。なぜかおとぎ話風のストーリーになってしまった。題して、
『やたら反抗する奴』
ある所に赤ん坊がいた。すくすくと親の庇護のもとで育っていった。毎日を何の疑いもなく、「自分として」過ごしていた。しかしある日、かつて見たことのない人間が目の前に現れる。そいつが失礼なことを言う。「おまえ変だぞ。」で、言い返す。「別にいいじゃないか、誰もほかの奴はオレのことを変だなんて言わないんだから。」そいつも負けていない。「じゃあ、なにか?お前はそのままでいいと思っているのか?」しつこい問いかけに閉口してだんまりを決め込もうとするが、腹の虫が治まらない。「やっぱり、言い返してやろう。でも言い返したら、また言い返されるんだろうな。くそっ。どうすりゃいいんだ……。」もはや言葉は出ない。ただただ、「だんまり」の1手あるのみ……。
そこで、この物語は次のステージに進む。けれども、展開は大きく2つに分かれる。この物語には、2通りの結末が用意されるのだ。
1つ目の結末はこうだ。結局、自分がその相手を言い負かして、勝利する。たとえば、そいつに「でも改めて考えたんだが、ほら、こんな風にねクドクド・クドクド~~だからクドクド・クドクド、~~オレって結局、結構イケてるわけだろ?」相手は疲れてうんざりしてくる。「もうわかったよ。好きにしな!」「ヘッヘッ。オレの勝ちだね。」後はそいつを無視し、安心して「自分として」生きていった、という結末。
2つめの結末は、この相手にどうしても勝てないというものだ。最後までずっと相手は自分に反抗し、嫌がらせを言い続けてくる。自分は、大人になっても常に惨めな思いと腹立たしさを抱きながら生き続けていった、という結末。
さて、この2つの結末が、一体何を示そうとしているのか分かるだろうか?わからない??この物語は思春期つまり反抗期を迎えた子どもがどういう風にして「大人」になるか、という話だった。だとしたら、この主人公が出会った相手って誰だろう?それは、「もう1人の自分」なのだ。自分が自分に対して問答を繰り返す中で、やがて「もう1人の自分=自己批判的な自分」を手なずけてしまう、というのが結末の1。「もう1人の自分」を手なずけきれずに、大人になっても最後まで自己批判を受け続ける、つまり常に自分を相対視する姿勢、他者の目から見た自分を自分の中に保ち続けていく、というのが結末の2。
私がたどり着いた結末は、以上の通りだ。ただ、おとぎ話なら、物語の「その後」が気になる。2つの結末を迎えたそれぞれの主人公が過ごしたのは、どんな人生なのか?もう少し続けて考えてみた。「…で、“めでたし、めでたし”はどっちだ?」……。
結末の1のように気楽に生きた末に来るものは?結末の2のように悩み苦しみながら生きる末に来るものは?うーん…ここから先は諸君に任せよう。めいめいがじっくり考えて選び、自分の人生の「めでたし」を迎えてほしいと思う。
筆者プロフィール 父親の海外勤務のため、オーストラリアに4年間滞在。代ゼミ帰国コースを経て、早稲田大学第一文学部に入学、哲学科心理学専修に進学。現在、社団法人共同通信社で大阪支社社会部に勤務し、大阪府警捜査一課担当の記者。
日本に帰国して、早いものでもう10年以上が経ちました。私はもともと、将来は日の丸を背負って仕事がしたい、という希望をもっていました。海外滞在中にさまざまな人種の人々と接してきたことで自分が日本人であることを強く意識するようになり、日本人であることに誇りを持つようになったからだと思います。
高校時代から犯罪や犯罪者の心に興味があったため、大学と大学院では心理学を専攻、卒論ではポリグラフ検査を選択しました。その後、紆余曲折があって警察ではなく報道機関に就職したのですが、何の縁か、入社以来ほとんどずっと事件記者をやっています。
現在は大阪府警察本部の記者クラブで、殺人や誘拐、強盗などの凶悪事件を担当しています。実際に権力を行使する仕事ではありませんが、「日本の犯罪を少しでもなくし、安全で良い国にしたい」という思いを実現するためには、ペンの力というものは絶大で、やりがいのある仕事だと実感しています。
私は学生時代、代ゼミで6年間チューターをしていたのですが、その間、常に帰国生の生徒たちから色々なことに気付かせてもらいました。大学時代はチアリーディングサークルの活動に明け暮れ、自分が帰国子女であることを意識することはほとんどありませんでした。いい意味では帰国して日本に溶け込んでいたのですが、周りに流されて自分らしさを見失っていたときもあったように思います。でも帰国入試に向けて頑張る皆さんと接していると、ときには忘れかけていた自分の目標や情熱を思い出し、そのたびに「初心に帰る」ことができました。
一般の高校生の家庭教師もしていたのですが、帰国子女の受験生が日本の高校生と一番違う点は、大学に入るということだけを目標とするのではなく、その先にある自分の将来を見据えて大学に入ろうとしているというところです。もちろん「まだ決められないから大学に入って考えたい」「○○にも興味があるけど、××もやってみたい」という人もいます。それでもいいのです。大事なのは、常に先を考えること。大学に入ることや就職をすることはゴールではありません。自分が何をしたいのか、そしてどういう人間でありたいのか。自分のオーストラリアでの生活を振り返ってみても、学校ではエッセイやディスカッションなどで意見を求められることが多く、クラスメイトは皆自分の生き方や考え方について自分の意志を持っていました。
今は日本でも、有名大学を出ただけで望み通りの就職ができるわけでもなく、帰国子女だというだけで有利になるということもありません。やはりそこには、個性や主体性が求められる社会になっています。でも、そういったものは一朝一夕で作られるものではありません。決して楽しいことばかりではない海外生活で培った「自分らしさ」は、将来必ず役に立つのです。
記者という仕事は「人」が相手の仕事です。その相手はさまざまで、老若男女問わず、政治家や会社員、路上生活者や在日外国人など、人種から生活環境まで、自分とは全く異なる人から話を聞かなければいけないことも珍しくありません。(言語という意味ではなく)話が通じないこともたくさんあります。
それはまさに海外生活と同じ。どうしたらその環境に溶け込めるか、どうしたら相手の言うことが理解できるか、どうしたら自分の思いが伝わるか…記者の仕事はこの繰り返しです。ここまで極端でなくても、どんな職業でも社会に出たら同じ局面があり、多くの社会人はこの壁にぶつかって苦労しています。異文化の中で、言葉の壁や人種の壁を乗り越えて生活してきた皆さんには、こういった環境に適応できる強さがあると思うのです。それが「帰国子女」の一番の強みではないでしょうか。
一般的に、愛国心が強い外国人に対し、日本人、特に若者でそれを意識している人は多くありません。私は海外滞在中に友達から日本の歴史や文化、土地のことなどを聞かれてうまく答えられず、「日本人なのに日本のことを知らないのはおかしい」と言われ、そうだなと思ったことがあります。そのことをある人に話したところ「あなたは若いときに海外生活をしていたからそう思うことができた。それはとても恵まれていることだ」と言われました。
受験を控えた皆さんは今、試験や帰国後の生活など、色々な不安を抱いていると思います。でも海外滞在中はあまり受験というものにとらわれることなく、「今」の時間を大切にして、その土地でしかできないことをすることで思い出をたくさん作り、悔いのない海外生活を送って帰国してください。「当たり前」でない経験をしてきたことは、これからも皆さんの糧となり、受験はもちろん、さまざまな困難を乗り越える上で一番の支えになると思います。頑張ってください。
筆者プロフィール 父親の海外勤務のため、小学生時代にエジプト3年間、高校時代にイスラエル3年間の合計6年間の海外滞在。代ゼミ帰国コースを経て、一橋大学経済学部に入学(在学中は代ゼミ帰国コースのチューターも経験)。現在、日本政策投資銀行都市開発部で勤務。
「私は海外滞在経験から自分の日本に対する愛国心が芽生え、将来は日本の国益につながるような職業に就くため、一橋大学に進学希望」という気持ちを心に帰国をしてから6年が経ちました。大学では企業経済学を中心に学び、アイスホッケー部で大切な仲間と居場所を得て最高の大学生活を過ごし、いざ日本のためにとの思いで就職して社会人2年目、ようやくスピード感にも目が慣れてきました。現在は、都市開発部という部署で、まちづくりや都市整備に関わる不動産デベロッパー等を中心に、金融面でサポートをするという仕事をしています。この仕事は、自分が携わった融資の結果として、ビルが建ったり、市街地が整備されていったりするのを目にすることができる「目に見える金融」であり、そこにやりがいや達成感を感じます。帰国当初から胸に抱いていた「日本のためになる仕事」の一端を担うことが出来ているという実感と共に、日々充実した社会人生活を送っています。
私自身が帰国生であることに加え、大学時代に帰国チューターとして帰国生を見てきた経験から、帰国生は大きく分けて2つのタイプに分類されると思います。一つ目は、帰国後も日本という国をどこか外側から見つめ、海外志向を持って生活するタイプ。二つ目はその逆で、帰国後は海外での経験を元に、母国日本への愛着心が芽生えて日本人としての自覚と誇りを持って生活をするタイプ。どちらが正解・不正解というのはありませんが、私は後者です。それは、エジプト人(アラブ)、イスラエル人(ユダヤ)共に愛国心が強く、自分が国家の一員であることに誇りを持っていたことに起因します。彼らと接していて感じたのは、「果たして自分は彼らと同じくらい母国の国民であることに誇りを持っているか?」ということでした。そして、自分の日本に対する理解の甘さに気付き、海外生活を送りつつ、母国日本への気持ちが強くなっていきました。
帰国生が特別だと思われる時代は既に終わりました。一昔前には「キコク」であることだけで特別視されていた時代があったのかもしれませんが、今はそうではありません。また、帰国生の特権であった、「英語がペラペラ」という特徴も、その存在感が薄れてきているように感じます。現に、私の周りには海外経験があって英語が堪能な人が大勢いますし、海外経験がないのにも拘らず私よりも英語が堪能な人がいます。このような状況において、帰国生としての存在感を示すためには、独自の海外経験を取り込んだ「自分色」を持つことが必要です。それが絶対的な語学能力なのか、あらゆる角度から物事を分析することが出来る視野なのか、様々な考え方が出来る柔軟な思考力なのか、それは十人十色です。ちなみに私の「自分色」は、一風変わった国に滞在し、独特の色彩を持った人たちと接することで得た、日本人としてのアイデンティティーと母国愛です。日本人であることに誇りを持つことが今の自分を形作っていて、私のすべての行動の原点となっています。それが現在の仕事の実績や辛い時の踏ん張りにもつながってきているという自覚があります。皆さんはあなただけの「自分色」を持っていますか?
どうしたら「自分色」を磨くことができるのでしょうか?簡単に述べると、①ベースになる色を決める、②重ね塗りをして風合いを出していく、ということです。①は、自分が素になれる居場所と仲間を見つけることです。自分のベース色が決まらないことには、刺激でいっぱいの海外生活に流されてしまうだけです。なるべく重ね塗りが効くような(=周りの意見が聞こえやすい)開放的な居場所と風通しの良い仲間を持ってください。次に②は、バラエティーに富んだ人達と積極的に接することです。せっかく海外生活を送っているので、この際、貪欲に好奇心を追い求めてください。ここでポイントなのが、なるべく同系色(=日本人コミュニティー)よりも、他系統の色を取り入れてみてください。この2点を頭の片隅において生活をすること、これが「自分色」の作り方です。
総括すると、帰国生は2種類に分類され、どちらに分類されたとしても「自分色」を持った帰国生にならないと存在感が認められない、ということです。そして、素の自分でいられる場所を見つけること、それでいて常に他のコミュニティーとのつながりを保ち続けることが、他にはない「自分色」を作り上げ、また、作り上げた後も他の色を混ぜて、さらに鮮やかな色に改善していくコツです。どこにでもいる帰国生にはならず、「自分色」を持った帰国生になることが、成功への近道です。皆さんのご活躍を期待しています。
筆者プロフィール 父親の海外勤務のためアメリカに7年滞在。代ゼミ帰国生コースを経て、慶応義塾大学法学部政治学科に入学。現在、キヤノン株式会社に勤務し、海外業務を担当。
日本に帰国して早10年。寝る間も惜しんで楽しんだ大学生活もあっという間に過ぎ、気が付けば社会人として働く自分がいます。このあっという間の10年間に、大学入学・就職・結婚など、人生において極めて重要な決断をしてきました。今、ここで改めて自分の人生を振り返ってみると、それぞれの決断の支えとなっているのは、小中高を通して経験してきたさまざまな苦労や喜びを通して築き上げた価値観です。私の場合は、父の仕事の関係で小学6年生から高校卒業までアメリカで過ごす機会があったため、異文化へ溶け込んでいくという比較的刺激の多い環境で自分の価値観を磨いてきたのだと思います。
帰国してから気付いたのですが、帰国子女というと海外に住んでいたから自己主張が強く、外国語ができるから、あるいは異文化経験があるからユニーク・国際感覚があるというイメージを持っている人が意外と多くいます。しかし、日本でずっと育ってきた人のなかにもユニークで自己主張が強い人はたくさんいます。また、帰国子女でもおとなしい人や意見の少ない人もいます。ただ単に海外に住んでいたから国際感覚が身に付くわけでもなく、異文化に接したからといって特別な経験になるということではないと思います。
将来的に役立つ経験とは、自分の置かれた環境の中でどれだけ心に残る感動や発見をするかにかかっていると思います。日常生活の中でいろいろなことにチャレンジし、物事の本質を見抜く力を磨くことで、自分の中に明確な価値観や自信を作り上げることができるのだと思います。そしてその価値観こそが、自分特有の「ものさし」となり、大学受験だけではなく社会へ出てからも必ず役立ちます。
大学生の頃はそれほど意識していませんでしたが、社会に出ると、自分の意思だけで物事を動かすことは予想以上に困難です。例えば会社に入れば、企業には利益を出すという主目的があり、その達成へ向けてさまざまな人が組織の一員として働いています。そして、各構成員が自らの専門性を高めながら、経験や知識を活かしてより良い結果・成果を目指して仕事に取り組んでいます。それぞれの人が個々の目的を持って働いているので、利害や考え方が一致しないことも多々あります。しかし、会社が組織としてその本質的な力を発揮するためには、皆が共通の目標へ向かって一丸となって動く必要があります。組織が健全に機能するためには、個人の利害にとらわれず全体としての利益を意識した考え方や目標設定が重要です。
こういった環境の中で求められるパーソナリティとは、誠実・円滑なコミュニケーションを通して強いチームワークを築くことができることと、その組織をとりまとめて動かすことができる信頼を、周囲から得ていることだと思います。例えば、周囲の出来事に自ら積極的に関わることで、組織全体に協力的な雰囲気を作り出すことや、組織としての目標を皆で共有できるように、わかりやすい言葉で筋道を立てて正確に方向性を示すなど、チームワークを強めるために貢献できることは、小さなことでも身近にたくさんあります。こういった簡単なことでも、ただ単に周囲の流れに任せて動いているだけでは決して実践できないと思います。また、一夜漬けで勉強したからといって身に付くものでもないと思います。身近なことに当事者としての自覚を持って積極的に取り組んでいくことで自然と自分のパーソナリティとして形成されていくのだと思います。今、改めてアメリカでの生活を振り返ってみると、いざというときのアメリカ人のチームワークとリーダーシップの強さは、幼い頃からコミュニケーションを重視した教育を受けているからなのだと感じさせられます。
みなさんは目の前の受験を控え、さまざまな不安を抱えていることだと思います。私も10年前の今頃は、日本での新生活、受験勉強、大学生活等不安なことでいっぱいでした。しかし目の前のことにとらわれすぎず、長期的な視野をもって自分の感性を磨くことに力を注いでください。帰国子女受験は普通の受験とは少し異なった形で行われるので、そこでどれだけ自分の魅力を引き出せるかが勝負だと思います。自分の魅力を最大限に引き出し、表現するためには、日々の生活に敏感なアンテナを張って様々なことにチャレンジし、新たな発見、成功、失敗を繰り返し自分の「ものさし」を伸ばすことが一番の近道だと思います。焦らず頑張ってください。
筆者プロフィール 上智大学外国語学部長、国際言語情報研究所所長、専門は応用言語学。文部科学省SELHi企画評価委員、中央教育審議会外国語専門部会委員、他歴任。
海外で長く過ごして日本に帰ると、色々苦労があるでしょう。私は今まで合計すると12年海外で過ごしましたが、特に、小学校時代アメリカとカナダで過ごして帰国した時は、日本語が出来ず、中学2年を落第し2度やらなければならないほどでした。当時はまだ「帰国子女」という言葉がありませんでしたので、変な日本人とか変な外人、と言われました。アメリカやカナダにいる間はまだ補習校もなければ日本人学校もありませんでしたし、海外子女教育振興財団のような組織は存在しなく、通信教育もありませんでした。
このような状態で日本に戻りましたが、日本の受験地獄のことはまったく知りませんでした。日本語が殆ど読めず、自分の名前を書く時に、よしだの「し」が右を向いているのか左を向いているのかさえ分らない状態でした。
英語だけは得意だったはずなのですが、訳読が出来ず、日本で教えられている学校英文法が分らず、結局、中学高校6年間を通して英語で100点を取ったことは一度もありませんでした。60点台を取った時は、さすがにいつもはのんびり構えていた母が私が知らない間に学校に行き、私が唯一できるはずの英語で本当にこんな点を取ったのか、と聞きに行ったほどでした。
でも不思議なものですね。人生に目標が出来ると、人間、変わります。高校時代にESSで下級生や同級生の指導をするのが楽しくて英語の教師になろうと決意し、その目標を実現するために上智大学に進学しました。それまでの私の成績では、到底上智大学には入学できなかったでしょうが、目標が出来、自分の人生に方向性がでてきたことにより、土壇場で力が出たのでしょうか。
高校時代、日本語に自信がなく、英語も帰国して数年経っていましたので、段々自信がなくなってきていました(特に、文法訳読ができないと当時の日本では英語が出来るとされませんでしたので、訳読が苦手だった私は、かなり劣等感に苛まれていた時期がありました)。でも、大学に入ると、自分がやりたい勉強が、自分がやりたいように出来るようになりました。言語学を勉強することにより、高校までやってきた学校文法とは全く違った科学的観点から文法は語形成規則を見ることができましたし、第2言語習得や外国語習得の原理や実験を通して、自分の語学力を改めて見直すことができるようになりました。
子どもの頃からの海外体験がなければ、今の自分はないでしょう。ことばだけでなく、ものの考え方や行動も、周りの人とはちょっと違ったところがありました。純粋な日本人でもない。かといってカナダ人でもアメリカ人でもない。今までの全ての経験が影響しあって作り上げられた、吉田研作、という個人のアイデンティティが早くから出来つつあったのではないかと思います。
今は、海外にいても、日本人学校もあれば補習校もあります。通信教育もあれば、インターネットでいつでも日本の情報を手に入れることができます。昔から考えれば、信じられないぐらい状況は良くなっています。大学入試もしかりです。今は、殆どの大学で帰国子女を受け入れていますし、帰国子女入試以外でも受験しやすくなっています(昔は帰国と認められなかった個人留学も特別枠で受験できるところも増えています)。
社会も英語が出来る人を求めています。もちろん、帰国子女がみんな英語圏から帰ってきているわけではありませんが、外国語ができる、ということは、大いにプラスになっています。
帰国子女は、ずっと日本で育った人より、多種多様な経験をしていますので、個性が豊かな人が多いのではないでしょうか。語学力だけでなく、そのような個性が益々重視される世の中になってきています。海外で暮らした経験があり、今後のグローバル社会を担っていく者として、自分が今まで培ってきた経験を大切にしてください。
筆者プロフィール 神戸在住。夫の赴任に伴い米国ネブラスカ州に約8年間家族で暮らす。長女は元代ゼミ帰国生チューター,現在は外資系企業勤務。長男は代ゼミ帰国生チューター。長男は今春から早稲田大学大学院に進学,次男は高校3年生。
アメリカのネブラスカ州と聞いて,すぐにどこか答えられる人はどのくらいいるでしょうか?初めて聞いた時は私も答えられませんでした。そこはアメリカのど真ん中,昔はグレートプレーンズと呼ばれる大草原が広がり,開拓時代には幌馬車が西へ西へと向かったオレゴントレイルの通り道。今では広大なトウモロコシ畑と人の数より多い肉牛で有名な所です。私達家族が夫の赴任に伴い,当時,中2の長女,小6の長男,6歳の次男と一緒に1994年から8年余り暮らしたのは,そこの州都,リンカーンでした。
初めて暮らす異国の地,アメリカは日本とずいぶん違う国でした。もとより多くの移民から成り立っている国ゆえに,社会構造は複雑で,単純な価値観で割り切れない多くの問題も抱えていました。でも多様性と柔軟性に富み,異質なものを受け入れる土壌があることは,私達にとって,とても新鮮に感じました。当時,子供達が学んだESLには様々なバックグラウンドの生徒がいて,ロシアや湾岸戦争後のイラク,ボスニアの内戦を逃れてやってきた家族もいました。大学の研究者である親の仕事でイスラエルから来た友達は,クラスメートのイラク人の子が心を許してくれない悩みを我が家の娘に相談し,娘は日本では考えもしなかった,2千年に及ぶ流浪の民,ユダヤ人とアラブの関係を思って複雑な心境になったこともありました。またボスニアから来た友達の誕生会では,元高校教師のお父さんから内戦の続く母国がまだ平和だったサラエボオリンピックの頃の思い出を聞かされ,心に痛みを抱えながらも一生懸命アメリカで生きる姿に涙が出そうになったこともあります。そしてアメリカはまさにそういう人達が可能性を求めて一緒に生きる国なのだと実感したのです。
50%を超える離婚率のこの国では,シングルマザーやブレンディッドファミリーも珍しくありませんが,複雑な家庭環境の中,オープンで前向きに生きる家族の姿もよく見ました。初対面から義理の父だと紹介してくれる子,子供が養子であるのを隠さない親,学校ではティーンエイジマザーが子供を託児所に預けて学ぶ姿があり,ホモセクシュアルを語るサークルがありました。そういう複雑多様な社会に身を置いて子供達が学んだことは何だったでしょう。それは,その中から“かけがえのない自己”を見出す行為ではなかったかと思います。そのことは同時にセルフエスティームと呼ばれる子供達の自尊感情も大いに育ててくれたと思うのです。
私達が暮らした所は日本人も少なく補習校もありませんでしたが,アメリカでは好きな事を思う存分挑戦して欲しいというのが親の願いでした。子供達は学校でトランペットやトロンボーンなどの楽器に興味を示し,マーチングバンドや市のユースオーケストラの一員になって活動しました。バスケットボール,絵画のクラス,そして兄弟は揃ってバス釣りにも夢中になりました。言語や文化背景が異なる中,学校を嫌がることもなく伸び伸びと色々な事に挑戦できたのは,アメリカの多様で柔軟な教育環境と褒めて育てる姿勢による所が大きいと思います。
異国の生活において母親として出来ることは,子供の順応をあせらずに見守ることと,自分自身がポジティブに楽しんでいる姿を家族に見せることではないかと勝手ながら信じていた私は,コミュニティーカレッジで,社会学や心理学,カウンセリングに関するクラス等を取り,アメリカの複雑ではあるけれど興味深い多くの側面を学ぶことが出来ました。その後,長女と長男はハイスクールを卒業し,日本の大学へ帰国受験をすることになりました。土地柄,受験に関しては詳しい情報もない所でしたが,異国での生活を前向きに送ることが子供達の財産となり,帰国後も自分自身への自信に繋がったように感じました。
外国に暮らしてよかったことは,家族一人一人の存在が重要な役割を果たし,日本の生活以上に家族の絆が精神的な支えとなるのを実感したことでした。そして今,子供達は巣立ち,離れて暮らしてはいますが,我が家のキラキラ光る思い出となったネブラスカ時代は,今でも家族共有の強い絆になっているとしみじみ感じています。
筆者プロフィール 早稲田大学教育学部卒業。サッカープレーヤー・映像制作・通訳を経て、2004年よりスペインサッカー協会公認フットボールスクール「J-FRONTAGE」の立ち上げの契約を担当し、開発・運営に携わる。2002年サッカー日韓W杯ではブラジル代表通訳・チームエスコート、2002年トヨタカップ 南米代表チームエスコートを務める。35歳。
私が帰国子女として話をさせて頂くには、ずっと昔の話になってしまいますが、ある程度年輪を重ねていくうちに、海外での生活体験が自分にポジティブな影響を与えていることを自覚するようになりました。自分の体験と、思うところを書かせて頂くことにします。一つの例として読んで頂ければと思います。
私は海外居住経験者です。今はスポーツ事業を営む企業の社員としてフットサル環境を提供する業務に就きながら日本で生活しています。
海外生活は幼少時に4年間父の赴任に伴い英国で暮らしたのが最初でした。はじめは現地の幼稚園に入園し、他に日本人がいない中で1年間苦しみました。過ごしたのはロンドン郊外の穏やかとは言えない地区でしたが、やがて友達も増え楽しい時間を過ごすようになりました。滞在中の最大のトピックはなんといってもサッカーとの出会いでした。友達や年の離れた兄に遊んでもらっていただけですが、その後の自分の生活に、現在まで大きな影響を与えています。
学生時代、怠りがちだった学業もサッカーで身につけた体力と闘争心でどうにか乗り越えました。大学では、教員を目指すはずがサッカーへの執着が強まり、就職活動をやめて武者修業にブラジルへ渡る決意をしました。
ブラジルでは複数のプロチームでの生活を経験し、ポルトガル語とブラジルの人・文化などの新しい価値観と出会いました。現実の生活をかけている現地の選手は私のような侵入者に容赦しません。自ら飛び込んできた恵まれた国の人間に、強い敵意を示すプレーをたくさん味わいました。ただ、意地悪とか憎いということではなく、自分を守るための必然的な行為だということがまさに「痛いほど」理解できました。
一方、その環境の中で闘ってきたおかげで適応が早かったのも事実です。最初の3ヶ月を過ぎる頃には日常会話はこなせるようになり、さらに自力でビザの変更のための情報を集めるうちには言葉はもちろん、日本とブラジルの歴史や現在の両国の関係なども知ることができました。名実ともに勉強した、と今も感じています。
その後アメリカの下部リーグで念願のプロリーグでプレーし、帰国しました。そして日本で最初に就職することになったスポーツの映像教材を作る会社ではサッカーの企画に携わり、映像制作について学んで経験を積みました。
4年間勤めた後通訳・翻訳、そして映像ディレクションのスキルを活かして自宅の一室を拠点に独立しました。収入は少ないながらも好きなことを仕事にできる感覚は格別で、普通に勤めていたらなかなか味わえない体験もたくさんしました。現在の仕事にも繋がる自分の肥やしになっています。
例えばそれはブラジルで、地位のあるフットサルコーチのトレーニングビデオを作ることになったときの経験です。こんな依頼が来ること自体これまでの実績が活きているんだと喜びましたが、この機会に学んだのはフットサルのトレーニングではありませんでした。渡航前を含めてさんざん打ち合わせをして準備を整えた挙句、肝心の撮影当日になんと本人が現れなかったのです。「明日よろしくお願いします」と言ってにこやかに別れた翌日のことでした。
あとから現地の人らと話して見えてきたのが、結局彼らにとっての仕事・約束、あるいは契約という概念が日本でいう感覚のそれと根本的に違うということでした。選手時代にもプロチームの給料が未払いで選手たちが練習や試合をボイコットという話もざらにありました。社会情勢もあり、彼らにとっての明日の保証とか約束は通常の日本で捉えられているそれとは違っているのです。どんなこともあり得るという覚悟を前提に、彼らは賢く生活しているのです。こうした発想や視点の違いは今の仕事で取引のある他の国の人との間でもあります。その点に対する私の強みは、語学力よりもむしろ違う価値観同士を突き合わせた海外での経験だと思っています。
これまで私はいろいろな『挑戦⇒克服⇒自信・達成感⇒次の挑戦』の繰り返しをしてきました。挑戦の対象は向こうからやってくるもの、自ら挑むもの、とそのときどきで違いますが、それに向かうときの心理に共通点は見出せます。
今の自分がこの共通の部分であるスタンスを持てるようになったことは、これまで書いてきたような海外での生活が背景にあります。異文化での共生は、言語・習慣・発想などいろいろな他人とのギャップを克服し、理解することに他なりません。海外生活の機会はそういう大きな挑戦の経験を与えてくれる幸運です。私にとってはその幸運を活かしたご褒美が第二言語の習得であり、感性の違う人々との交流で磨かれた価値観です。また、それがさらに新しい出会いや機会をもたらしてくれていると思います。
そんな経験を既にしていたり、少なくとも今回日本に帰国したことで克服すべき壁に挑む機会を得た幸運な皆さん。正面から挑んだことは必ず糧になり自信になります。私も皆さんも、幸運のアドバンテージを存分に活かし、これからまた多くの挑戦と克服を重ねていけますように。
筆者プロフィール 2003年1月まで約10年間、代ゼミの国際教育センターで帰国生の大学受験進学指導や面接指導、情報誌の編集など担当。同年3月にエジプトへ渡る。同年9月より国立アインシャムス大学の日本語専任講師を2年勤め、現在に至る
「今度は浦上先生(私の旧姓)が帰国生になる番ですね。」
帰国生にこう言われながら代ゼミを辞め、夫の海外赴任に同伴し、エジプトに来てから2年半になります。
代ゼミ在職中、帰国大学受験コースが開講する7月が、毎年帰国生との出会いの季節でした。私達クラス担任はこの時期に個人面談を実施し、彼らの教育歴や成績、受験計画を確認していました。私はこの面談が好きでした。世界各国からの個性豊かな帰国生の波乱万丈の物語が聞けるからです。ここで私が重要視していたのは、次の3点です。
1) 自分のやりたいこと、好きなことを熱く語れる。
2)人の話を素直に聞ける。
3) 滞在国での経験や思い出をたくさん持っている。
これらが備わっている帰国生は魅力的で、海外でいかに現地の人とコミュニケーションしてきたかが分かります。また入試も必ず成功し、その後も目覚しい活躍が見られます。
そんな帰国生たちのように、「私も生まれて初めての海外経験で人間的にもっと成長できるといいなあ」と期待半分、不安半分の思いを抱きながらエジプトに渡ったのでした。
エジプトに来た当初、会う人会う人に「ようこそ!」と温かく挨拶をされて肩の力が抜け、ここで何とかやって行けそうだと思えました。その一方で、物が壊れ易く、修理屋を呼んでも「5分後に来ます、それがアッラー(神)の御意志なら。」と言ったその結果が翌日以降になるという、当てにならない時間の感覚や、規則は無視して何でも話し合いで自分の主張を通そうとする交渉社会に閉口しました。
私が働く大学の学生も「昨日まで家族と旅行をしていて全然勉強していないから、今日の試験を来週にしてほしい」、試験実施直前に「問題を教えてほしい」、「エジプトでは遅刻は悪いことではありません」など、理屈が通る通らないに関わらず、とにかく公然と非常識な主張をしてきます。しかし怒って呆れる反面、慣れない日本語を使い、身振り手振りを加え、私を分からせようとする彼らの諦めない姿に感心もします。また、憎らしいほど人懐こくて、分かり易く、上手な表現で訴えてくるのです。この手法が日本で通用するかは別として、ある意味、コミュニケーションの際、その貪欲な姿勢は見習うべき所があるように思います。
エジプト人のことを「明るいけれど厚かましいし、時間や約束も守らないし、頑固で謝らないし、文句を言うと下らない嘘や言い訳でごまかすし、目前に利益がないと働かない怠け者だからダメだ」と現地在住の方からの声をよく耳にします。しかし客観的に見ていると「この店はエジプト人店員だから態度が悪い」と文句を言う人に限って、店員とろくに言葉も交わさず、失礼な振る舞いも多いのです。「異国人同士でどうせ通じないし、…」と初めからコミュニケーションをせず、勝手に判断してよいものでしょうか。
確かに、90%以上イスラム教徒の国で、言葉も習慣も考え方も我々日本人とはかなり違うエジプト人への説得には骨が折れます。しかし、彼らの考えも尊重しつつ、こちらの言い分も述べて「だからいけない」とはっきり主張すれば、エジプトの人も案外、潔く非を認めるのです。必然性が分かれば、無理な用事でも融通を利かせてくれます。感謝の気持ちで贈り物をすれば、心のこもったお返しが来ます。日本社会と同じです。また、習慣の違いから現地の人を怒らせてしまった時でも、日本の社会人の礼儀を尽くして説明すれば、「それなら問題ない」と温かい目で水に流してくれ、後で信頼関係ができることもあります。
ここで生活して、諦めずに分かり易い意志伝達を心掛ければ、温かく耳を傾けてもらえ、「話せば分かり合える」し、そこで初めてその国の真の姿が分かるのだと認識しました。
今、日本語教師の仕事をしているため、エジプト人学生の日本語力の現状を考慮しながら、常に「分かり易く伝えること」を心掛けています。しかし、これを実行するのはなかなか難しい。母国語、外国語を問わず、日頃の心掛けと訓練が必要です。またこれは生きていく上で、余計な誤解による争いや身の危険を避けるためにも必要だと思います。例えば、エジプトや中東諸国内で、よく警官や軍の人からテロの警戒もあってか、「外国人」というだけで不愉快な尋問を受けます。そんな時、怪しまれないように怒らず冷静に、礼儀正しく、かつ分かり易く、身の潔白を主張しなければ、逮捕されたり、殺されたりするかもしれません。
皆さん、海外滞在中、できるだけ分かり易い意志伝達を心掛けてみてください。海外生活の長い人は帰国後、日本社会で相手を思いやりながら、分かり易い意志伝達の努力をしてください。異文化間の意志伝達の苦労を克服すればするほど、礼儀、思いやり、積極性そして語学力も身につくと思います。日本に帰国したら、さらに日本語で思考力と表現力を磨き、まずは帰国入試でそのコミュニケーション能力の四技能(話す、聞く、読む、書く)を活かしてください。外の世界を知り、教養のある人は、勇気があって誰に対しても優しく、立派な人が多いと思います。皆さんがそうなって行かれることを願っています。
筆者プロフィール 高1~高3までアメリカオハイオ州に滞在。代ゼミ帰国生コースを経て、上智大学文学部教育学科入学。在学中代ゼミチューターとして生徒指導に携わる。現在、(株)三越に勤務。
私が今の仕事を選んだ理由。それは、「人とのつながりのある仕事」をしたかったからです。百貨店には毎日不特定多数のお客様が来ます。年齢層性別も様々、買い物をしに来る人、ただ通るだけの人と目的も人によって違います。そのような人の流れを毎日自分の目で見て、その人に合わせた接客をし、たくさんの会話をする事で変化のある生活を送ることが私の仕事のやりがいだと感じています。お客様の中には、わがままな人、気難しい人、優柔不断な人と色々いますが、日々の経験を積む中で、どのような人に対しても臨機応変に対応できる力を身に付けられた気がします。いい意味で「人を見る目」がついたのかもしれません。そして人と多く接することで、人に対しての興味が以前よりさらにわくようになったのです。
このような様々な人との関わりの中で、お客様が、ものを買いたい空間、そして楽しめる空間を作ることが私の最大の仕事となってきます。百貨店の中での商品選びは、常に先のシーズンのものを見ていく必要があります。つまり、初夏の頃にはすでに冬物の商品選びをしているということです。昨年はどのようなものが売れていたのか分析し、今年のトレンドやコレクションの情報をもとに取引先(メーカー)に商品選びに行きます。一つのアイテムでも5,6社のメーカーとの取引があるので、各メーカーの営業とよく話をし、売りたいものを決めていきます。それから自分の売場内で、どのように商品を並べ、どのようなイベントをやるのか自分自身で考え、提案していきます。常に新しいものを見る目を持ち、先へ先へと行動できる力を持つよう心がけているのです。様々な結果やデータ、情報をもとに商品を選んでも時には気候や、お客様の心理によって売れない時もあります。そのような場合でも、常に前向きに考え、商品の並べ方を変えてみたりなど工夫をしながら仕事を進めていきます。
様々な人と臨機応変に関われる力、新しいものを見る目を持ち、前を向いて行動する力、そして人との関わりが好きであるという心。この3つの力を日々の仕事経験の中で私は活かしています。この3つの力は、私が海外生活で得たものであるのです。
日本の高校に入学してから数ヵ月後、父親の転勤で急遽渡米することになった15才の夏。思春期を迎え、自己形成がある程度できている段階で新しい世界に入りこむのはとても勇気がいり、不安だらけでした。言葉を理解することも出来ず、ただこの場にいる現状を受け入れることしかできない自分がいました。そんな中、自分の好きな事(音楽)で自分をアピールし、新しい環境に少しずつ慣れようと心がけていったあの頃。私はとてもがむしゃらに前を向いていたように思います。そして少しずつ友達が増え、学校生活に溶け込んでいったのです。自分の存在を自分で努力して周りに伝えたこと、そしてその上でたくさんの人との関わりが持てたこと、さらに異文化という貴重なものを経験できたこと。こういう過程を経たからこそ、私は人間が好きであり、人とのつながりを大切にしたいと思えるのです。
異文化の中で生活すること。これは私達帰国生の特権であると思います。貴重な時間を何となく過ごすのではなく、何かしら小さな事でも感じながら生活して下さい。異なるものと接する時、必ず何かを感じ、考え、自分なりの思いを積み重ねてほしいと思います。
社会に出て大きな組織に入ると、良くも悪くも自分の意見が思うように伝わらなかったり、自分の失敗が上司の失敗と大きなものになったり色々なことがあります。社会に出て3年目。学生時代は自分の好きなことを好き放題やっていたなと懐かしい時もあります。学生時代にしか出来ない事、やりたい事はたくさん経験し、是非皆さん自分自身を高めていってください。
筆者プロフィール 7年間の米国在住後、92年より海外・帰国子女の教育支援を行う。民間企業を経て、2002年、非営利の自主活動グループOUTREACHを設立し、現在に至る。
私は数年前から、英語で学校教育を受ける生徒の言語習得について研究してみたいと思うようになりました。海外子女が身につける英語力の差は、そのまま、現地生活の充実度や帰国後の進学、さらに就職にまで大きな影響を及ぼすという事例を、長年にわたる海外・帰国子女の教育相談で沢山見ていたからです。
進行し続けるグローバル化、IT化の波は、英語の必要性を高め、帰国子女に対する期待も大きくなる傾向にあります。実際、高校段階で海外生活を送る生徒の大多数が、英語による学校教育を受けています。一般的に帰国子女といえば即、日・英のバイリンガルと思われがちですが、十分な教科学習ができる英語を身につけるのは、予想外に難しく、思うように学習が進まない生徒も沢山出現しているのが現実です。
個人のできる研究は本当に小さな範囲でも、目的を持って調査・研究を行なうことで、少しでも効果的な教育支援ができるのではないだろうか、という思いは、日毎に強くなりました。そして2年前、思い切って社会人を対象の大学院に入り、修士論文と格闘を始めたのです。家族や友人は、「その歳で、そこまでしなくたって・・・」と半ば呆れ顔でした。確かに、老化し始めた頭で、仕事や家事もこなしながら研究を進めるのは本当に大変でした。しかし、仕事に直結する研究ができることで、若い時とは違った充実感を得ることができました。
研究のテーマは、英語力とその習得に関わる要因との相関関係を調べることで、今回は主にアメリカの現地校に在籍経験のある生徒さんや保護者の皆様を対象に、(1)現地(2)児童生徒(3)家庭の3つの視点からアンケート調査を行いました。英語力と要因の間に数値的な相関性を確認できたのは、(1)滞在年数(2)校外での英語接触量(3)日本語の読解力(4)自主性(5)家庭の教育支援の5点でした。これらの結果から、今海外で勉強する高校生の皆さんにアドバイスできるのは次のようなことです。
1に、あせらず、侮らず、諦めずに努力することです。言語の運用能力には個人差が大きいのですが、BICS(日常生活を営むのに必要な言語能力)とCALP(学習をする為に必要な言語運用能力)を併せ持った高度な英語力を育成するには、長い年月(今回の調査では4年以上)が必要であることがわかったからです。第2に校内ばかりでなく、校外での英語接触量をできるだけ多くしましょう。地域活動への積極的な参加は、ネイティブスピーカーと双方向のコミュニケーションを促進し、ことばの背景にある文化や価値観を理解できる点で言語習得によい影響を及ぼすと思われます。第3に、できるだけ早く英語の教科学習ができる様になるために、日本語による学習を大切にしましょう。特に学習英語力の強化には、膨大な時間をかけて英語の文献を読むより、むしろ読解力のある日本語であらかじめ学習教科の内容や、背景事情などを読んでおくことが非常に有効です。スキーマと呼ばれる先行知識が蓄積されていれば、多少分からないことばがあっても、すでに自分の中にある知識に結び付けて内容を把握することが容易になるからです。第4に、身の回りで起きる様々なことをCriticalな視点で見る癖をつけましょう。様々な疑問が湧き上がってきたときこそ、知的好奇心を満足させる勉強ができ、それは楽しいものとなるからです。学習効果を高めるには、自分の中から湧き出るモチベーションが最も有効です。
最後に保護者の皆さんへのお願いです。実際に英語で勉強を教えることは難しいのですが、学習環境の整備、学校でのボランティア、先生とのコミュニケーションなど教育支援の方法は沢山あります。子どもたちや現地の地域社会、学校教育に対する関心と暖かな励ましは、彼らに安心感を与え困難を乗り越える大きな力となります。これは数値的な相関以外にもアンケートの記述部分から確認することができました。海外での教育は、国内のそれとは比べ物にならないほど家庭の関与度が高いので苦労も多いと思います。しかし、やりがいはそれ以上に大きいのでどうか暖かな気持ちでお子様を見守って下さい。そして何より現地での生活を心から楽しんで下さい。そうすれば自ずと結果はついてきます。
私もまた、海外で学ぶ子ども達が、人種やことばの違いを超えて、国際社会の中で自分自身を発揮できる人になってくれることを願って、アドバイスを心がけたいと思っています。
先日のこと。都内の電車内で“ギャル”(16~20歳近辺の女子。1年中日焼けしていて、髪は主に金髪のロング。目の周り全域が銀色のアイシャドウで縁取られていることが多い。)2人が、扉まえにあぐらをかいて座り込み、大声で話をしていた。彼女らの眼には、混雑している周囲の乗客は入っていないようだった。話の内容は、バイト仲間への不満だった。曰く、「もうホンット、信じらんない!なんで、あそこで私にああいうことが言えるワケ?自分がバイト休む時は平気で頼むくせに、私がちょっと、こんどバイト代わってって言ったら、“そういうの私できないの”だって!常識ないって、ああいうのを言うんだよね!」「そうよ、あの娘いッつもそうよね!ホント常識ないよねッ!!」思わず、おまえ達の方こそどうなんだ?常識がないのはおまえ達のほうだろ?と突っ込みたくなった。一体何考えているんだか?!
でも、それから私は考えた。本当に彼女達は何を考えているのだろうかと。
ここで、話は大きくそれるが、最近、私は哲学の発展について考察し、自分なりにまとめてみた。哲学、つまり人間の基本的なものの見方・考え方の発展をたどってみると、人間が赤ん坊から大人へと成長していくように、哲学(思想)も段階を追って成長してきていることが解かり、興味深かった。中でも特に興味を引いたのは、哲学思想の発展において、異文化との出会いが大きな意味を持つということだった。哲学は、万物の原理は水であるとしたギリシアのタレスに始まるとされている。しかし、これは、ギリシアでの交易が広がり、それまでの部族の物語が異民族に通じなくなったために、何らかの共通の考え方を生み出す必要性が生じてきたためと言われている。その後も哲学は、同様の進化過程をたどっていくのである。すなわち、これまでの価値観では通じない、交易あるいは時代状況に出くわすたびに、哲学は、考え方の変更と進化を迫られて来たのである。
ということは、裏返せば、自分たちの価値観の変化を促す外部(その典型が異文化)との出会いがなければ、考え方の進化も無いということになる。
ここで話を先ほどのギャル2人組みに戻して考えてみよう。彼女達は、自分達を取り巻く狭い小世界のみで過ごしてきたために、より広い外部の世界(社会全般)の考え方=常識を身につける機会を失ってきたということになる。けれども、彼女達は全く「常識はずれ」なわけではない。なぜなら、2人が口にする常識=「人に世話になったら、その人に恩返しをするのが礼儀だ」は、外部(少なくとも日本社会)の常識としては真っ当なものだからである。そこで問題は、なぜ彼女達はこのような中途半端な常識を身に付けているのかということになる。
ここで、私は考えた。先に述べたように、文化は異文化との交流を通じて進化する。けれども、この進化を受け継ぐには受け継ぐ側に相当の努力と研鑚とを必要とするのだ。つまり、こういうことである。人間は、努力・研鑚を怠っていると、進化の前段階に留まったままになってしまうのだ。たとえは悪いが、彼女達は文化進化のレベルで言えば、まだ高度な「ヒト」のレベルにまではなりえずに、「サル」の段階に留まっているといえる。「ヒト」には「サル」が何を考えているかは解かるが、「サル」の方からは、「ヒト」が何を考えているかは解からないことが大半であろう。だから、放っておけば、「サル」はいつまでたっても「サル」の常識に留まってしまうことになるのだ。彼女達がバイト仲間の常識はずれを非難するのは、あくまでも素朴な(「サル」レベルでの)常識を基にした非難であり、先の電車の中でのように、「周囲の無関係な人達にも迷惑をかけてはいけない」というのは、高度な社会的な常識(「ヒト」レベルでの常識)なのである。彼女達の進化レベルでは、高度な社会的常識(「ヒト」レベルでの常識)は理解できなかったのだ。
しかし、恐ろしいのは、このギャル達だけではなくて、誰もが彼女達のように「サル」レベルの進化で留まってしまう可能性があるということだ。人間は普段自分を基準に物事を判断している。けれども、その判断が文化的に「サル」のレベルであったとしたら?より高度な社会的常識を身につけないまま大人になってしまったとしたら?......
幸いにして、諸君は異文化という進化を促す環境の中で過ごしてきた。しかし、この環境を真の進化につなげ、「ヒト」のレベルに到達していくためには、諸君も日々の努力と研鑚を怠ってはならないのですぞ!
筆者プロフィール 1988年東京都立国際高校開設準備より国際部所属。1993年より海外子女教育振興財団教育相談員。2003年より現職。
グローバル化時代と言われる現在、世界各地の映像はいつでも見ることができます。私たちは世界中の赤ちゃんの映像を並べて各々の特徴、差異等を比較することは容易ですが、映されている本人達は、他の赤ちゃんとの差異を比較する能力はまだありません。日本人であっても金髪の子に混じれば自分も同じ金髪、黒人に混じれば同じ黒人と思いこんでいるそうです。何才ぐらいになったら差異を識別するようになるのでしょう。幼稚園に通う年齢になれば一応は比較していますね。でも、目に見えない文化面の比較、例えば言語については識別できず、海外から帰国して日本の幼稚園に入園した子どもが英語で他の園児に話しかけている場面を見ることがあります。成長期の子どもが海外生活を経験しても、内容によっては文化の差異を認識できず、海外体験として生かすに至らないこともあるのです。
帰国生の外国語習得をメリットとして数えるのが普通ですが、低年齢での海外体験では日本語を含む日本文化習得の不足というデメリットを伴うことが多いのです。幼少期に長期間海外で過ごした子どもの場合、ひらがなや漢字の一部を読み書きできても、個々の語い(彙)の意味を知らない場合が多いのです。わかい(若い)、つめたい(冷たい)と読めても、young、coolという意味と理解できず、日本語の語彙として使えないのです。高学年になるほど意味を知らない語彙が増えて日本語の本は理解できなくなり、学習にも支障をきたします。バイリンガルとして育つためには、いつ頃から、どんなやり方で第二の言語を習得したらよいでしょうか。
言語には、主として生活環境の中で自然に覚える生活言語、学校などの教育機関で文字や文法なども含めて習得させる学習言語に大別できます。前者は耳から入ってくる音声で習得するので、生活環境によって大きく左右されます。異なる文化環境に入ったら生活言語も切り替わるのが自然です。文字と共に習得する学習言語は母語として一生使い続けることが可能な言語ですが、初歩的な段階から同じ比重で二言語を習得することはかなり難しいことです。日本の学校教育では、小学校の最初から日本語の習得を主にして、英語は第二言語として中学校からスタートさせていました。近年、児童英語の導入が可能になりましたが、話し言葉である生活言語の習得に比重を置いています。渡航時までに、あるいは海外滞在中も母語としての日本語の習得を継続し、年齢相応の学習言語を身につけていれば、帰国後、日本の学校教育への適応も容易です。しかも第二言語としての英語を、音声で学んだ生活言語だけでなく、文字と共に身につけた学習言語も年齢相応の段階まで達していれば、バイリンガルとしての活躍が期待できます。
帰国生の海外体験のメリットは第二言語の習得だけではありません。文化の差異を認識できる年齢であれば、具体的な生活様式から精神文化の各面に至るまで、日本文化と他地域の文化とを比較して、より客観的に把握することも可能です。高学年になるほど、より広範囲に、綿密に他の国、他の民族との比較で自国認識を深めることができます。自分が直接体験してきた外国の教育、学校生活等についてはとくに強い関心を持っていますが、帰国当初は日本の教育や学校について批判的になり、周囲から孤立してしまうこともあります。学習方法や考え方は帰国生の方が正論であっても国内の中・高校ではなかなか採り上げてもらえません。しかし、大学に進学して、学生の自主性がより尊重されるゼミ形式の授業、サークル活動等の中では帰国生の体験、広い視野が十分生かせます。途中で挫けないで、海外体験で得た特性を持ち続けていれば、外国語習得の特性と併せて実り多い学生生活を実現できるでしょう。
人は人生の中で、幾度となく立ち止まって「生きる意味」を自問する。そして、その答えを見つけたと思ったのも束の間、それまでの答えに疑問を感じるようになる。そしてまた新たな答え探しの旅をはじめる。これからの進路を決める受験期は、まさにこの問いに直面し、答えを真剣に求めようとする人生最初の時期なのではないだろうか。
訳あって、私は自閉症の子ども達と関わっている。そして過日、家内の旧知の間柄であるタレントの島田律子さんが、自閉症の弟の力郎さんのことを書かれた書物『私はもう逃げない-自閉症の弟から教えられたこと-』(講談社刊)を出版されたことをきっかけに、千葉県・滑河の自閉症施設である「しもふさ学園」を訪ねることとなった。この学園のことは、島田さんの本が先日NHKでドラマ化され、「抱きしめたい」のタイトルで放映されたので、ご存知の方も多いのではないだろうか。
ここで少し自閉症について説明しておこう。自閉症とは、先天性の脳の機能障害であって、原因も不明で未だ治療方法も確立されていない。その症状は個々の患者毎に異なるが、共通する症状は、コミュニケーション障害(言葉の獲得も含め)と、その多くが精神発達遅滞を伴うことである。重度の者は排泄・睡眠という人間が当たり前のように日々行なっていることすら難しくなる。有名な映画「レインマン」の中に出てくるダスティン・ホフマン演ずる自閉症者が、驚異的な記憶力の持ち主として描かれているが、このようなケースはむしろ稀で、多くの自閉症患者は一見全く「無能力」であるかのように見えるのが実情である。
さて、話を元に戻すが、島田さんの弟の力郎さんが生まれた30年前には、今以上に早期療育など何もなく、力郎さんのご両親である島田夫妻の当時の苦悩とご苦労がしのばれる。そのような中、島田夫妻は、何も無いなら自分達の手で子ども達の居場所を作ろう!と決意され、汗と涙の結晶として「しもふさ学園」が誕生したのであった。(この辺りの詳しい話は、前出の島田律子さんの本を読んでもらえばわかるだろう。)
島田さん(父上)の案内を受けて見学させてもらった「しもふさ学園」は、想像以上に素晴らしい施設だった。緑に包まれ澄んだ美味しい空気で満たされている広大な敷地。建物・設備の美しさと清潔さ。その場全体を包む暖かさとやわらかさ……。「どうしたら一個人の想いがこのように大きな仕事として具現化されるのだろう。」と、人そのものが持つ力と可能性とに心を打たれ帰途についた。
滑河からの帰路、感動の余韻に包まれながら、ずっと先ほどのことを考えていた。「どうして個人の手でこんなに大きな仕事が出来るのだろう。大勢の人の共感を呼び、寄付金を集め、土地まで提供してもらい、多くの困難を乗り越えて親の想いを『しもふさ学園』という形で具現化できるのか。その原動力はいったいどこから来るのだろう?」家に帰り、家内とも話をしていて、ふとひらめいた。「ひょっとして、これらの仕事をしていたのは力郎さんではなかったのだろうか。」と。確かに実際に施設作りに奔走されたのは島田夫妻ではあるけれども、見方を変えれば、物は言わずとも力郎さんがご両親に働きかけ、施設を作らせたのだと言えるのではなかろうか。彼の存在は、ご両親を通じて周囲の人々に働きかけ、そこから大きな波紋が広がり、仕事が次々と実現されていったのだ。
人が生きる意味はいったいどこにあるのだろうか。具体的に何かをなす能力を持ち合わせている事に、生きる意味があるのだろうか。「そうではない。一見無能力に見える人も、その存在自体において生きる意味が確かにあるのだ。」このことは、頭の中では解かっていたつもりだ。けれども、今回「しもふさ学園」を訪問したことで、生きる意味は断じて具体的なものに尽くされるのではなく、人の存在自体において大きな意味があることを心の底から実感し得たのである。
受験勉強に悩む諸君!君達は自分の能力に悩み、自分の力を小さく感じることも少なからずあるだろう。しかし、君達にも当然のことながら、君達の存在それ自体において、まっすぐに生きようとする姿それ自体において、尽くせぬ深い意味があることを噛みしめてもらいたいのだ。
筆者プロフィール (略歴)大学院卒業後、研究所勤務を経て、15年前に東京学芸大学海外子女センター(現在は国際教育センター)に赴任。以来、海外・帰国子女教育の研究を続けている。
海外で生活している高校生のみなさん。いま、大学には改革の嵐が吹き荒れています。大学に身を置く人たちに大変なのですが、高校生のみなさんにとっては、大変いい風が吹いているように思います。
大学はいまこぞって第三者からの評価(外部評価)を受けようとしています。入試の難易度だけでなく、その大学の持つ研究内容、水準、講義内容、施設、キャンパスライフ、卒業生の質などを多くの項目について客観的な評価が行われようとしています。このことはとても重要です。どの大学に入れば何ができるかがこの第三者評価ではっきりわかります。これは「大学評価・学位授与機構」というところから公表されますので、みなさんにとって大学を選ぶ有効な基準になるはずです。
また、「大学の授業はつまらない」と不評でしたが、大学教員の授業改善が急速に進み始めました。みなさんは、Faculty Developmentという言葉を聞いたことがありますか。これは、大学教員の能力開発ということで、教授方法の改善を主目的にしたものです。最近、各大学が独自にベストティチャーを選ぶようになってきました。また、学生による授業評価も多くの大学で行われています。大学によっては、授業の上手な教員を給与面で優遇しようという動きもあります。学生に対して質の高いサービスを提供しているのはやはりアメリカでしょう。いち早く授業改善と授業評価を取り入れたからこそ、アメリカの大学は世界的に優れた評価を得ているのだと思います。
いい卒業生を送り出すために、いい教育を提供するという当たり前のことが、ようやく競争の時代で現実のものになってきました。また、雇用状況の悪化により、各大学とも卒業生にいかに付加価値をつけるかが課題になってきています。そうした付加価値をどの大学のどの学部がどの程度提供しているかを自分の目で確かめてください。それをしないと卒業時に大きなツケが回ってきます。大学をみなさんが自由に選べるということは、それだけ自己責任が大きくなることを意味します。
こうした大学改革の中で、大学も当然入学者を選ぶ方法に工夫を凝らすようになってきました。特に、人気のある大学ではその傾向が強くなっています。これまで各大学とも受験生に迎合して、受験科目を削減してきました。その結果、学力低下がおき優秀な卒業生を送り出せない事態になっています。そこで、最近、脚光を浴びているのがAO(アドミッション・オフィス)入試です。ご存知のように、10年ほど前に、慶應義塾大学藤沢キャンパスではじめて実施したものです。受験生の多面的な能力を丁寧に評価するこの方法を導入しようとする大学が増えています。
AO入試が実施されれば、「帰国子女」のみなさんにとっては有利になります。海外での学習歴、成績を積極的に考慮してくれるからです。これまで大学入試は、「帰国子女枠」や特別選抜という方法が中心でした。それが、海外での学習をより積極的に考慮してくれるようになります。特別の受験勉強から解放されますので、「帰国子女」のみなさんにとっては有利に働くのではないでしょうか。
ただ、AO入試で選抜した学生のために特別なカリキュラムが用意されているかどうかが重要になります。これまでどの大学でも、入り口の改革には熱心でしたが、入った後の対応は全くしていませんでした。入学後に、どのような対応をしているかに是非関心を持ってください。大学の中には、特別に「日本語学習」「日本社会」などの講義を用意したり、英語での授業を開講したりしているところもあります。こうしたことも、大学の評価の対象になってきますので、注意してみてください。
大学はいま改革のまっただ中にあります。各大学は、ホームページを通して刻々を改革の様子を発信しています。受験生や学生を主体にしたホームページがつくられているか、早速志望大学のページをのぞいてみてください。最初のページが学長挨拶や理事長挨拶で始まるような大学は改革が進んでいるとは思えません。質の高い教育を提供する大学こそが生き残っていきます。大学を淘汰するのはあなた自身です。
筆者プロフィール (略歴)高校生で1年間米国留学。教師を経て米国の大学院でカウンセリングを学ぶ。現在、カウンセリング及びその指導(教員等対象)に従事。第23回博報賞(国際理解教育)受賞。
もうすでに20年以上も前のことになりますが、私は親の赴任に伴って海外で生活することが目前に迫っている子供たちのグループカウンセリングを行っていました。その時に、帰国した子供を招いてこれから渡航する子供たちからの質問に自由に答えてもらう時間を設けていました。
10年以上もそのグループカウンセリングを続けていましたが、いつも思ったことは帰国した子供たちは確実に海外での体験を自分のものにしているということです。帰国生は海外でさまざまなことを実際に体験し、そしてただ体験しただけでなく、それがどのようなことを意味しているのかを自分の言葉で語ることができるのです。
今もはっきりと覚えているある帰国生の言葉があります。その時彼女はこれから渡米する子供たちにこう言いました。「あのね、アメリカに行くとね、人のこころのあったかさがわかるよ」何て素敵な言葉でしょう。それとちょっと胸がせつなくなる言葉でもあります。海外ではつらいことや楽しいこと等、いろんな体験をします。彼女はおそらくつらかった時に、アメリカの先生や子供たちに助けられたことがあるのでしょう。そしてそれに感謝していることがわかります。「人のこころってあったかいんだ」という生きていくのにとっても大切なことを、アメリカでの自分の体験から学びとっているのです。
大学で異文化の講義を受け持って、もう10年以上になります。嬉しいことにクラスの半分以上の学生が帰国生と留学生なのです。ですから、クラスでディスカッションをすると日本にずっといた学生からすると、思いもかけない意見や物のとらえかたが出てきてとても楽しくそして本当の意味での勉強になります。
帰国生が自分の体験や思うことをそのまま素直に話すことが、ほかの学生にとって自分が体験していないことをじかに本人から聞けることや、さらに自分とはまったく違うところに価値観を持っている学生の思いを聞けることで、実際は教室内で話していることですが世界のミニチュアを体験しているような錯覚にもとらわれます。
世界中から帰ってきた帰国生と接していると、彼らは「人と人とは違うんだ」ということを本当にわかっていることがわかります。これは、異文化の中で生活したことで、すなわち周囲はマジョリティーである現地の人々そして自分はマイノリティーという状況の中で生活したことで、周囲の人と自分は、外見、行動、感じ方、物のとらえかた、考え方等が違うということを実体験し、人はそれぞれ違うということを学んでいくのだと思います。そしてお互いに違いがあるのだから、わかろうとしてコミュニケーションを取ろうとしたり、まだ相手を尊重する気持ちも出てくるのだと思います。
どうも「人と人は違うんだ」ということは、ずっと日本にいると知識としてはわかるようですが、なかなか本当にはわかりにくいようです。
いま海外にいるみなさんにはいろんなことを機会あるごとに積極的に体験して、そしてさらにいろんな人とつき合って欲しいと思っています。
最近日本の若い人から、うまくいきそうもないことは初めからしないということをよく聞きます。こういう声を聞く度に何だかもったいないなと思ってしまいます。
うまくいかないと勝手に思っていたことが案外すんなりといくこともあります。また、もちろんその逆もあるでしょう。でも、うまくいかなかったと思ったときにはやりなおせばいいのです。ただ、それだけです。ですから、何もしないであきらめないで欲しいと思います。
本から学ぶことも大事ですが、いろんなことを体験して欲しいと思います。これまでしたこともないことに挑戦する、いつもつき合っている人だけでなく日頃つき合ったこともない人とつき合ってみる。そうすることで案外知らない自分と出会うことがあるかもしれません。
ぜひ、いろんなことを体験して、感じて、考えて、自分を成長させて欲しいと思います。
代々木ゼミナール国際教育センター
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